太宰治:「黄村先生言行録」・「花吹雪」・「不審庵」 =滑稽噺 ”黄村先生三連作” で時勢に警鐘=
太宰治は、太平洋戦争さ中の昭和19年(1944)8月、短編創作集『佳日』を肇書房から刊行した。 |
1.「黄村(おうそん)先生三連作」の梗概 単に“黄村先生シリーズ”とか“黄村(先生)物”とか言われるが、次の3篇の連作である。 ・第1作 「黄村先生言行録」 (初出・雑誌<文學界>S18/1号 :S17.11.30までに脱稿) (梗概)私の師である黄村先生は、山椒魚に凝った。書物を紐解くと、太古のままの大サン ショウウオは、今や、世界中で日本にしか生存しないと知り、誇らしく思い、自ら手にしたいと 乗り出すが大失敗に終わる。先生は、最後に失敗との関連は疑問だが「南方の強か、北方 の強か」(中庸-第十章)と言った。先生は、この失敗を私たちへの教訓材料とされたようだ。 ・第2作 「花吹雪」 (初出・短編集『佳日』(S19/8):S18/5-6上旬頃までに脱稿) (梗概)黄村先生は若者に”男子の真価は武術にあり”と説く。私が調べると、確かに鴎外も 漱石も強かった。宮本武蔵の”独行道”は男子の模範だが、私はすべてその逆と自嘲、散歩の 途中、鴎外の墓前から逃げ帰る。先生からの便りで、先生は武術未熟だったが某画伯に嘲弄 されて喧嘩を仕掛け、相手が強くて自分は痛い目にあった。これを教訓に練磨に励めという。 ・第3作 「不審庵」 (初出・雑誌<文藝世紀>S18/10号 :S18/9上旬頃脱稿) (梗概)黄村先生から、聖戦下に最適の趣味として茶会に招かれた。私は粗相のないよう茶会 の心得を独習して臨んだが、先生には特別の心得はなく、ただドタバタする大騒動になった。 先生は利休の茶の精神を顕現したかったようだが、お気の毒な結果で、数日後「喉が渇いたら 台所に走り、柄杓でごくごく飲む、これが利休の茶道の極意」という手紙が先生から届いた。 2.「三連作」執筆・発表の背景と意図 三連作の執筆・発表は、戦時下、それも戦況は不利に転じており、当局による思想・言論統制は 一段と厳しさを増し、国民の戦意高揚、戦争協力体制の強化で、世相は戦時一色の様相だった。 こうした状況や太宰の身辺、執筆、発表作など、概略は次表のようになる。 |
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(1)執筆の背景(概観) ・太平洋戦争は先制攻撃で優勢に立った日本軍だったが、ミッドウェイ海戦(S17/6)に敗れてたち まち敗勢に転じた。しかし、国内では戦争完遂の声が大勢で、消極姿勢は”非国民”と糾弾された。 ・徴用で多くの文人、作家が従軍したが、太宰は肺疾患のため徴用を免れた。肩身が狭かったが、 丙種の点呼や在郷軍人の暁天動員、査閲に参加など、普通の市民生活をしながら執筆に励んだ。 ・折から、戦争協力が目的の日本文学報国会が設立され、作家は全員が加入せざるを得なかった。 作品発表には当局の厳しい検閲があり、例えば、谷崎潤一郎「細雪」は発表中止に追い込まれ、 太宰も「花火」は発表直後に全文削除を命じられるなど、こうした例は枚挙に遑がない状況の中で、 戦意高揚、国策小説が主流となり、発表を断念した作家も少なくなかった。 (このころの状況については、別記「戦統統制、文学報国会の活動」に詳記) しかし、太宰は執筆依頼には最大限に応じ、検閲を念頭に、題材・表現について熟慮、工夫し、 懸命に執筆、発表の努力を続けた。太宰のいわゆる「中期」の後半に当たる。 ちなみに、奥野健男は新潮文庫『お伽草子』の解説で「太宰治の途絶えざる文学活動によって、日本 文学の光栄ある伝統が、戦中から戦後に一筋つながり得たと言っても過言ではない。」と評している。 また、同文庫「惜別」の解説でも同趣旨を記し、この時期の太宰の作品群を極めて高く評価している。 太宰は戦争直後に、この検閲時代を顧みて「十五年間」(S21/4)に「しかし、私は小説を書く事は、 やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。 それはもう理屈でなかった。百姓の糞意地である。」と書いたところである。 (2)「黄村先生シリーズ」執筆の意図 ①時節柄、太宰も戦争に関連する作品が多いが、いずれも国威発揚、戦争賛美、戦意高揚に資する ような内容ではなく、むしろ、『佳日』所収作品の多くなどはよく検閲を通ったと思える。 特に黄村先生シリーズ「三連作」はその感が強い。 ②太宰は、この第1作に「3作、4作続ける」と書いており、当初から連作を予定していた。不利な 戦況で暗くなりがちな世相を幾らかでも明るくしたいという意図があったかもしれないが、三作は、 日本古来の伝統、文化、価値観を茶化して滑稽噺に仕立てており、到底それだけとは思えない。 ③三作とも、私(作者=太宰)の師である黄村先生の思いに基づく実践と悲痛な失敗を揶揄する内容 で、先生はいわば反面教師の役回りだが、そこには国粋主義、精神主義、形式主義に傾きがちな 当時の国家体制、統制、時勢を風刺した太宰の冷静な目が窺える。 「花火」(S17/10)は掲載誌発行直後に削除を命じられた。心穏やかではいられなかったはずだ。 前出「十五年間」にある ”理屈でない、百姓の糞意地” で書き続けた作品群中の三連作で、胸中に 平和を願い、戦時一色化の流れに抵抗、警鐘を鳴らす意図をもって起稿したシリーズと察する。 ・第1作「黄村先生言行録」は、先生は”大サンショウウオ”を有史以来世界に誇る神国日本の象徴と 捉え、これを入手しようとしたが、現実は書物で学んだこととは大きく違ったという失敗談で、 最後に「中庸」から「南方の強・北方の強」を引用している。 私(太宰)自身が先生の今回の失敗との間に深い意味はないとしながら これをあえて引用したのは、 極端な思い込みの怖さと共に、極端な国家体制の危うさを訴えたかったのではないだろうか。 (「中庸-第十章」の引用個所につては後記「4.」) ・第2作「花吹雪」は、日本の武術、強靭な心身がテーマで、武蔵の「独行道」は男子の模範とし、 国策に沿った内容に見えるが、しかし読みようによっては、先生は”日本国”、私は”日本国民”、 喧嘩相手の某画伯は”米国”とならないだろうか。これだと単なる滑稽噺では済まないだろう。 (宮本武蔵「独行道」の引用などにつては後記「4.」) <改造>はこの作品の掲載を見送った。アッツ島玉砕、山本長官の国葬があり、滑稽噺は不相応と したのかもしれないが、原稿を返却していることから、いわゆる横浜事件(S17、<改造>掲載論文に 端を発した大規模な言論弾圧事件)のこともあり、こうした内容を読み取った可能性もあろう。 この後、どの雑誌にも掲載はない。1年遅れでこれを短編集『佳日』に紛れ込ませた感がある。 (このため、発表は、第3作の「不審庵」が先になり、第2作の「花吹雪」が後になった。) ・第3作「不審庵」は、題名(表千家では茶室を表す)が示す通り茶道が主題で、その作法を独習した 私(太宰)と詳しくない先生とのチグハグなやり取りを茶化した滑稽噺だが、最後は、先生から 「茶の湯も要らぬことにて・・」と利休の茶道の奥義を得心したという手紙を受け取る。 (千利休の引用などについては後記「4」) ここでは、太宰は形式を安易に振りかざすことの危うさと物事の本質を会得することの重要さを言い たかったのだろう。 深い思索や本質の追求は二の次、三の次、意見表明はままならない時勢だった。 3.三作品の評価について ・文学作品としての評価は現在まであまり芳しくなく、話題になることも少ない。黄村先生の言行に関し、 時勢に阿るような文言で肯定し、道化的に否定し、根底においては肯定するようなパターンで、太宰 の真意ははっきりせず、もっぱら”喜劇作品”としての質が問われている所為ではないだろうか。 しかし、このパターンは検閲を意識して滑稽噺化することと共に編み出した太宰の苦心の手法であって、 国家体制、時勢に対して喜劇という形を借りて作家が訴えた自己主張作品として評価すべきだろう。 (「”太宰の喜劇”として再評価すべき」という論考「太宰文学における「黄村先生」の位置」 (米田幸代著:ネット参照)がある。) ・太宰にはこの三連作以外にも、文面上は体制追従と読めても、行間には非戦の精神、平和を願う思い を込めたと察せられる作品が多々ある。短編集『佳日』所収の作品や、「新郎」、「十二月八日」、 「待つ」、「小さなアルバム」などがそのように読める。 時代背景、時勢を念頭に再読吟味し、再評価すべき作品群と思うが如何だろう。 (「新郎」・「十二月八日」は、次の別記項目に詳記) ・「新郎」-太平洋戦争開戦の日、急遽、原稿に加筆 ・「十二月八日」-太平洋戦争開戦の日、決意新たに! ・『佳日』刊行(S19/8)の後、昭和19年(1944)後半の太宰の執筆は、ほとんどが西鶴の作品などを 題材にした翻案小説で、黄村先生シリーズはこの三作だけで終わった。 戦況はますます厳しく、敗色は一般国民にも見えてきた。もはや体制や時勢、滑稽噺に出番はなく、 国策に沿った戦意高揚作品は書きようもなく、太宰は翻案物に活路を求めたといえよう。 なお、この時期、太宰は日本文学報国会小説部会からの委嘱による長編『惜別』執筆に意欲を示した。 国策協力であり、小説としても批判的評価が多いが、戦意高揚に資するような作品ではない。 太宰は、国策にいわば逆便乗して、周さん(魯迅)を借りて自身の文学論や国家観、時局観を細心 かつ巧妙に披歴したと読める。黄村先生三連作などと同様に戦時下の検閲を意識した肯定、否定 の手法による作品で、これも別項目に詳記したように再吟味、再評価が欲しい。 (『惜別』に関し、別記「「惜別」執筆経緯と評価の疑問」に詳記) 4.「三連作」のために太宰が披見、引用した文献 ①「黄村先生言行録」・・中国古典「中庸」、ほか 黄村先生の言として「そもそも南方の強か、北方の強か。」と引用している。 この原典は「中庸-第十章)」で、現代語の解は次のようにある。 (参考図書=「大学・中庸」(矢羽野隆男著:H28/2:角川ソフィア文庫)・・( )は訳者の補注) 「南方の強」・・大らかに穏やかに教え導き、道理に外れた横暴にも報復しない、 これが南方の人の強さである。(一般の)君子はこの強さに身を置く。 「北方の強」・・刀や槍・鎧兜を敷物として(常に身辺から離さず)、(戦闘におよんでは) 死をも避けない、これが北方の人の強さである。そして(一般の)強者は この強さに身を置く。 (しかし、南方の強さも北方の強さも極端で、これらはお前のすべき強さではない。) 本章は続けて「(真の)君子は、人と調和しながら人に流されない。中道に立って一方に偏る ことがない。」と説く。太宰が求める統治者像を書きたかったのだろう。 なお、『太宰治全集第五巻』(1990:筑摩書房)の「解題」(山内祥史)に、「石川千代松博士の 著書などで研究した」など、本作品の成立、披見文献に関して詳記がある。 ②「花吹雪」・・宮本武蔵「独行道」、森鴎外「懇親会」、ほか 宮本武蔵「独行道」19ヶ条を引用し、1ヶ条ずつすべてを自身(太宰)と比較、自分は真逆で到底 及ばない弱い男と自嘲し、散歩途中に日頃敬愛する鴎外の墓(三鷹 禅林寺)から逃げ帰る。 太宰が鴎外と同じ墓所に眠るのはこの作品の影響大と思うが、それはさて置き、武蔵の「独行道」 は、全21か条から成るにもかかわらず、太宰の引用は19ヶ条で2ヶ条足りない。 (太宰の墓が禅林寺(三鷹)にある事情=別記項目「太宰治(人生と作品)ー墓所」参照) これは、執筆当時、「独行道」は全19ヶ条、と記述のある有力文献が流布されており、太宰は それを引用したのであって、自分の意思で2ヶ条を削除したのではないと察せられる。 (これについては、別記項目「太宰治:聖書などからの引用・翻案作品」に詳記) なお、『太宰治全集第六巻』(1990:筑摩書房)の「解題」(山内祥史)には、「独行道」のほか、 森鴎外著『懇親会』など、本作品の成立、披見文献に関して詳記がある。 ③「不審庵」・・『千家正流 茶の湯客の心得』など多数 本文に、「「茶道読本」とか「茶の湯客の心得」とか、そんな本を四冊も借りて・・」とある。 太宰はこの小説を書くに際して、膨大な量の文献を披見したと察せられる。 引用した「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて、飲むばかりなるものと知るべし」は、 山内祥史は『茶道全集 巻の九』(創元社:S10/11)に拠るのではないかという。 これらの披見文献や本作品の成立に関しては、『太宰治全集第六巻』(1990:筑摩書房)の 「解題」(山内祥史)に詳記がある。 ・・余 聞・・ ①「黄村先生言行録」の読み方 ・「黄村」は、本項では「おうそん」とした。 一部に「こうそん」や「きむら」の読み仮名も見られるが、第2作「花吹雪」に、「そもそも黄村 とは大損の意かと疑わしむるほどの人物」云々とあるので、「おうそん」でいいだろう。 ・「言行録」は、普通には「げんこうろく」と読む。 『太宰治大事典』(勉誠出版:H17/1)には「ごんぎょうろく」とあるが、その根拠の説明はない ので普通に読んでよかろう。 なお、「黄村」の名は、太宰の作品中「ロマネスク-噓の三郎」(S9)に、嘘の三郎の父親は「江戸 深川に住む原宮黄村という男やもめの学者」として登場する。 極端な吝嗇家として描かれるが、本シリーズとは物語としての関連はない。 * 静岡市のHPによれば、明治政府が「静岡」という地名を採用するに際し、藩学校頭取の 向山黄村(むこうやま こうそん)が深く関わったという。こちらは江戸末期に幕臣として大活躍し、 明治維新後は文人として名を成した実在の黄村(こうそん)先生である。 ②黄村先生のモデルは井伏鱒二か? 実人生で、太宰は井伏鱒二を師とした。 そのためか、一部に井伏が黄村先生のモデルか? という声もある。 第1作「黄村先生言行録」は山椒魚が重要な役割を持ち、井伏の影がちらつく。 当時(S17)、太宰33歳、井伏44歳、晩年の井伏に限らず、昭和15年(1940)の伊豆熱川温泉 や四万温泉の二人の写真をみると、たしかに井伏の風貌には黄村先生の雰囲気がある。 (私はこのシリーズを読むとき、なんとなく井伏の顔が浮かぶが、太宰にそのような意識が あったかは全く不明である。) 井伏の実人物像は、”人生の達人”と称されたように冷静な普通の常識人で、その意味ではモデル というのは当たらない。 黄村先生は、人間誰しもが持つある思いの一部が極端な言行で表れ、しかも思いに反して悲痛な 結果を招く人物なので、誰もがモデルといえる・・太宰自身の一面(分身)ともいえようが、その 言行が「山椒魚」のイメージや多くの井伏作品に流れるユーモアとペーソス、井伏の風貌と相俟って 井伏に重なるのではないだろうか。 (井伏と太宰の関係については、別記項目「井伏鱒二と太宰治:師弟25年の軌跡」に詳記) ③終戦直後に、短編集『佳日』は『黄村先生言行録』として再刊(S22/3) 昭和22年(1947)3月、日本出版(株)は短編集『黄村先生言行録』を刊行した。 『佳日』の書名を変更した再刊だが、この時期の出版はGHQの検閲を受けなければならなかった。 日本の国体や旧体制、軍国主義を賛美する表現は規制され、例えば、富士山のデザインさえも問題に されかねない状況で、再刊ではあるが中身には大きな影響を受けた。 ・所収作品は、『佳日』から「散華」と「花吹雪」が削除され8編である。 この2編は、玉砕や武士道といった軍国精神直結の題材であり、所収は無理だったのだろう。 ・所収作品も「黄村先生言行録」「不審庵」を含め、体制、戦時がらみの個所、文言については いくつかの改変がある。 ・書名を『佳日』から『黄村先生言行録』に変更したのは、「佳日」は強く戦時に関連しており、検閲 を考慮して避けたのだろう。 実際、「佳日」には大きな改変があり、この改変をするくらいならむしろ削除した方がよかったと する論考(安藤宏)がある。 また、所収作品である「水仙」(S17)は、評判にさえならなかった「黄村先生言行録」とは違い 発表時に大好評でよく知られていた。書名なら『水仙』の方がよさそうだが、そうしなかったのは 太宰は黄村先生に愛着があったからか、という論考(米田幸代)がある。 (米田は、第1作は格上とされる<文學界>発表で、太宰には相応の意識があったはずという。) (参考文献:『太宰治 単行本にたどる検閲の影』(R2/10:秀明大学出版会)所収 :安藤宏著「『佳日』から『黄村先生言行録』へ」、ほか所収論考。 ネットより『太宰治文学における「黄村先生」の位置』(米田幸代)) -------------------------------------------------------------------- 本項(太宰治「黄村先生言行録」:”滑稽噺三連作”で時勢に警鐘) 2022(R4)/4 UP |
別記 「太宰治(人生と作品)」 |
別記 「太宰治 : 作品一覧」 |