太宰治「十二月八日」-太平洋戦争開戦の日、100年後に!


・・直前作「新郎」=ああ、このごろ私は毎日、新郎(はなむこ)の心で生きている・・

昭和16年(1941)12月8日 午前7時、NHKラジオは時報に続いて「臨時ニュース」を放送した。

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。
帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。
帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。
今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました。」
(ネット「NHK戦時録音資料・1941.12.8」より)


このニュースでは、西太平洋の何処で戦闘状態に入ったかは発表されなかったが、
正午のニュースで日本の戦争回避の努力は実らず、開戦に至った旨の東条首相の
演説を放送し、続く0時30分のニュースでハワイのホノルルを空襲したと伝えた。

なお、太平洋戦争の開戦(対米英開戦)は日本時間で昭和16年12月8日未明で、
陸軍はマレー半島(英領マレーとタイ国)への上陸、海軍はハワイ オアフ島の
米海軍基地攻撃で始まった。相手国に宣戦布告を行う前の奇襲攻撃だった。

太平洋戦争は真珠湾攻撃(対米軍)で始まったと思われがちだが、
実際にはマレー半島上陸(対英軍)の方が1時間余り早かった。
(この事実は雑学でなく、アジアの歴史認識として大事にしたい。)

ちなみに、海軍機が真珠湾の米軍に第一弾を投下したのは3時25分で、
有名な電文「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)は、3時22分の発信である。
一方、陸軍がマレー半島コタバル(英領)に上陸したのは午前2時15分である。

満州事変(S6)に続き、盧溝橋事件(S12/7)に端を発した日中戦争は
長期化し、日本は大陸進出が世界の猛反発を受けて孤立化した。
日独伊三国同盟(S15/9)に活路を求めたが、戦争回避を目指した対米
交渉は米国が強硬姿勢を崩さず決裂し、日本は最終決断を迫られていた。

自国の苦境を認識していた国民は、このニュースで、中国だけでなく世界最強国を
敵にした戦争突入を知り、”ついに、いよいよ、その時がきた” と緊張し、興奮し、
不安と期待が入り混じった複雑な高揚感に包まれたことが当時の資料から窺える。

作家の多くはこの日の様子や心境を日記、随筆、小説などに書いているが、
太宰は日米開戦から2か月の間に次の4篇の小説を執筆、発表した。

①「新郎」(S17/1:<新潮>=執筆はS16.11下旬頃~S16..12.8頃) 
②「十二月八日」(S17/2:<婦人公論>=執筆はS16.12.20頃まで)
③「律子と貞子」(S17/2:<若草>=執筆・脱稿はS16/12下旬頃))
④「待つ」(S17/6:創作集『女性』に収載=執筆、脱稿はS17/1頃)

この時節、思想、言論統制は厳しさを増し、文学分野に対しても例外ではなかった。
例えば、徳田秋声の「縮図」は、都新聞連載中に、内閣情報局から、時局に不相応
という圧力を受け、9月15日(S16)の80回をもって中断し、未完のままとなった。

こうして、戦意高揚につながる、いわゆる国策小説があふれ、一般の文学作品
の発表には、作家、編集者は第一に「検閲」を心配しなければならなかった。

④「待つ」の発表が遅れたのは、掲載予定(S17/3)の京都帝国大学新聞から
原稿を返されたことによる。妻美知子の「回想の太宰治」(講談社文庫:
2008)によれば、後に、当時の同新聞編集員の伊達得夫から
「内容が時局にふさわしくないという理由だった」と直接聞いたという。

なお、伊達は自著「詩人たちーユリイカ抄ー」所収の「発禁の思い出」に
このことを書いているが詳細は追って作成する別項目に記す。

太宰はこの後も「花吹雪」などで同様の経験をし、
「花火」(S17/10)は発表直後に全文削除を命じられた。

太平洋戦争中、筆を折る作家も多かったが、太宰は執筆、発表を続ける
決意を示し、題材やテーマ、文面を工夫し、それを実行したのである。

①「新郎」、③「律子と貞子」、④「待つ」については、次のに詳記した。

①太宰治「新郎」-太平洋戦争開戦の日、急遽、原稿に加筆

③太宰治「律子と貞子」-開戦の時、どっちの生き方?

④太宰治「待つ」-開戦の時、「私」は誰? 何を待つ?


本項では、②「十二月八日」の執筆、発表経緯や太宰が置かれた
立場、心境、戦争への思い、読者へのメッセージなどを探った。

 
 1.開戦当時の太宰の立場(上記①~④作品に共通)
  
  (1)平穏な家庭生活
    
    井伏鱒二の世話で甲府在住の石原美知子と再婚(S14/1)した太宰は、甲府でプロ作家として創作
    に励み、間もなく(S14/9:30歳)、三鷹に引っ越した。
    執筆依頼は増え、家庭人としても平穏な日々で、昭和16年6月に長女(園子)が誕生した。
    長兄文治との関係(義絶状態)が気がかりではあったが、おそらく太宰の生涯において最も安定、
    平穏な時期だったといえる。

  (2)生家(津島家)との関係
    
    津島家(長兄文治)との義絶関係は再婚(S14/1)後も変わっていないが、月額90円(一般家庭の
    生活費としては十分な額)の仕送りは続けられた。
    8月(S16)には母タネの病気見舞いで単身で生家を訪問できたが、これは、文治の留守中に無断
    で行われたものだった。事後に知った文治は、特に咎めはしなかったが、関係が修復されたわけ
    ではなく、妻と長女園子(S16/6生)を文治、母タネら身内に会わせることができない義絶状態は
    続いていた。
  
  (3)作家としての位置

    作家としては、再婚後の平穏な家庭生活のもと、懸命な執筆で新進、中堅として認められるように
    なり、妻美知子『回想の太宰治-旧稿』には、「15年春ごろには原稿依頼が増加して、著書も次々
    刊行され、昭和12、3年頃とは一変した状態になっていた。」とある。
    
    ちなみに、この春には短編集『皮膚と心』、『思ひ出』、『女の決闘』が刊行され、昭和16年に
    なってもこの勢いは変わらず、初の長編小説『新ハムレット』も刊行している。

  (4)文学仲間との交遊関係

    荻窪時代の活発な同人活動を通じた文学仲間や師とした井伏鱒二の人脈、特に阿佐ヶ谷将棋会
    のメンバーとの交遊を積極的に行い、また三鷹の自宅を訪れる若い文学青年らとは師の立場で
    交流、出版関係者への対応など、多忙な日常だった。
    
    ちなみに、戦後の太宰の人生に重く関わった太田静子(『斜陽』題材の日記提供者)は、
    このころ自宅を訪れた多くの文学青年の中の一人で、初対面は9月(S16)だった。

  (5)肺疾患で徴用不合格(徴用免除)

    昭和16年11月、国民総動員法に基づく国民徴用令により多くの作家ら文人が徴用された。
    いわゆる白紙招集(召集令状は赤紙)で、11月17日に本郷区役所集合で身体検査を受け
    たが、太宰は不合格(徴用免除)となった。妻美知子の『回想の太宰治-疎開前後』によれば、
    聴診器を当てた軍医は、肺浸潤と診断し即座に免除と決めたという。
    
    阿佐ヶ谷将棋会では、井伏鱒二、小田嶽夫、中村地平が徴用となり、11月20日に会で送別会、
    翌11月21日に集合場所である大阪へ向かった。太宰は東京駅で見送った。
    (井伏らは、開戦の日(12/8)は南方へ航行中の輸送船に乗っており、香港沖で迎えた。)

    ちなみに、阿佐ヶ谷将棋会の送別会(11/20)での木山捷平と太宰との会話が木山の随想
    「太宰治」(S39/7)に、「きみ、軍医をだましたね」・・「うん」などと軽妙に書かれている。
    
    妻美知子は「助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持で
    あった。」というが、世間的に不名誉感は拭えず、太宰の心境はさらに複雑だったろう。

    (ご参考・・本項末尾に 「太宰の身辺と執筆、発表作など一覧:昭和16年(1941)~昭和17年(1942)」)

 2.「十二月八日」執筆経緯と作品の特徴

   ・日米開戦(昭和16(1941)年12月8日)の日ないしその直後に「新郎」を出稿した太宰は、続いて
    本作品「十二月八日」を起稿した。いわば、12月8日の日中に「新郎」を書き上げ、その夜に
    「十二月八日」を書いたようなものである。
    
    山内祥史によれば、掲載誌「婦人公論 二月号」の奥付には昭和17年1月11日印刷とあり、
    12月20日頃までに脱稿したものと推定されよう、とある。(「太宰治全集 第四巻解題」(1989/12))

   ・執筆期間は約2週間、世間は緒戦の真珠湾攻撃などの大戦果に沸いていたが、太宰は冷静な目
    をもって自分としての開戦の日を捉え、”嘘だけは書かない”で100年後に伝えたいと起稿した。
    その日の主婦の日記という太宰得意の“女性独白体”で、茶化しや道化の要素が濃いのが特徴的
    だが、これは 時勢を意識した太宰の工夫だろう。

   ・小説は、「きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には
    日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。」に始まり、
    結びは、「どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。」という主人(太宰)像である。

   ・登場人物名(末尾参照)から、作中の“まずしい家庭”は太宰一家がモデルと特定できる。
    つまり、主人公の”私”(主婦)は太宰の妻で、自分の開戦の日の体験と感懐を日記に記すことで
    市井の人々の開戦の受け止め方や市中の様子をリアルに後世に伝えようとするが、主人
    (太宰)については得体の知れない存在として開戦への反応をボカシている。
    
    このボカシこそがこの小説を読み解くポイントだろう。

 3.作品の内容(文面の概略)

   主人は友人の伊馬さんと、紀元二千七百年を何と読むかといった他愛ないことを真面目に話し合う
   ような日々だったが、12月8日の早朝、西太平洋において対米英開戦の臨時ニュースを聞いた。
   主人は、「西太平洋はサンフランシスコか?」と馬鹿げたことを聞くような反応だった。
   
   朝食時に私が「日本は、大丈夫ですか」と言ったら「大丈夫だから、やったんじゃないか。必ず
   勝ちます。」とよそゆきの言葉で、あらたまって答えた。
   いつもは当てにならない主人の言葉だが、私は固く信じようと思った。

   日本の綺麗な兵隊さん、けだものみたいなアメリカの兵隊ども、敵をやっつけてください。物が足り
   なくなっても平気です。いやだなあ、という気持は少しも起らない。こういう世に生まれて生き甲斐を
   さえ感じる。誰かとうんと戦争の話したい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。

   主人は朝から忙しく原稿を一つ仕上げたようで、雑誌社に届けるため昼少しすぎに出かけた。

   お隣の奥さんに会ったら、戦争より隣組長になった責任の重さに緊張の様子。
   
   買い物途中で、懇意な亀井家を訪ねると、ご主人は戦時対応の作業をしていた。
   
   市場に行ったが、相変わらず品が乏しく、烏賊と目刺しを買う他は無かった。
   履物を買ったが、最近税金が付加されていて高くなっていた。
   
   ラジオは華々しい戦果を伝え、軍歌を流し続けているが、町の様子は少しも変っていない。
   
   夕方、配給になった6升(1升瓶6本)のお酒を9軒で等分するのは難しかった。
   
   一人で夕食後、生後6か月の園子をおんぶして銭湯へ行ったが、帰りは真っ暗だった。
   燈火管制のためで、初めて経験する暗さに途方に暮れたが、このとき、背後から調子はずれの
   軍歌を歌いながら帰宅途中の主人が追いついてきた。
   
   「園子が難儀している」と言うと、主人は「お前たちは、信仰がないから、こんな夜道にも難儀
   するのだ。僕には信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」と言って、
   どんどん先に立って歩いた。 
   どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。

 4.作品に込めた太宰の思い(行間)
  
  (1)文面の不自然さ

   一読すると、太宰の妻が「日本の綺麗な兵隊さん・・」と呼びかける箇所が強烈で、時勢迎合、戦争
   協力作品の感があるが、それにしては燈火管制は暗すぎると不満を言い、「今朝から違う日本に
   なった」としながら、本人や主人の行動、隣家の主婦や町の様子は以前と変わらず、さらに、主人の
   言動については「どこまで正気なのか」と結び、終始その存在、真意をぼかすなど、チグハグや
   不自然さが目立つ。

   これは、著者(太宰)が対米英開戦日という歴史の日を三つの視点で捉え、その状況における自身
   の思い、生き方を行間に潜ませる構成にしたからだろう。
   
   太宰の視点の一つは市井の現実、一つは一般国民の思い、もう一つは国家が国民に求めた戦時
   意識、姿勢である。これらを主婦(妻)の感懐(本音と建前)として日記に記した。
   
   ちなみに、妻が「日本の綺麗な兵隊さん・・」と呼びかける箇所は、戦争には勝たねばならぬという
   国民共通の思いだが、”獣みたいな米兵”とか、つらい時勢に生まれたことを悔やまない、といった
   表現は国によるプロパガンダの反映、つまりは妻の建前で、本音は燈火管制は暗すぎるのである。
   また、市場も配給も物は乏しく、新税で値段は上がるが、国民は協力して耐える現実も明記した。
   
  (2)太宰の思い(行間)を読む:私見

   以下、私見だが、太宰は一般国民としてこれらの現実を受け入れながら、自身の思い、生き方を
   次のようにこの作品に込めたのである。
   
   まず、この作品の最大のポイントは、結びの部分で、暗い夜道に「園子が難儀していますよ。」に
    対し「僕には信仰があるから夜道もなお白昼の如しだね。」という場面だろう。
    この場の言動には、確信に満ちた太宰の姿がある。
    
    園子は今、母の背中で「何も知らずに眠っている。」、その園子が難儀している・・、
    ”園子”を”平和”と読み替えられないだろうか。
    これから始まる”暗い夜道”をどのように歩くか、日本人の戦時の生き方を問うていると読める。
    
    太宰は「お前たちには信仰がない」が自分にはあるという。
    これは前作「新郎」を引き取っている。
    「新郎」では、聖書(マタイ伝6-34)を引いて「一日一日をたっぷり生きるほかない。明日のことを
    思い煩うな。」とし、私信の中で”文学をやめません”と明言したことに重ねたといえよう。
    つまり、ここでいう”信仰”は、”戦時も文学を続けて成功する”という信念と解してよかろう。

    「新郎」は12月8日の臨時ニュースを聞いた直後に加筆、完成した作品で、本作「十二月八日」の
    中に、雑誌社に原稿を届けるため外出したという記述があるが、この原稿のことだろう。
    太宰は、開戦という特別な節目を迎えた日の状況を踏まえて、あらためて文学への決意を固め、
    いわば「新郎」の続編(後編)として「十二月八日」を執筆したと察する。

         (詳細は別記項目「太宰治「新郎」-太平洋戦争開戦の日、急遽、原稿に加筆」参照)

   次に、国の命運をかけた対米開戦という重い一日を主題とする小説にしては全体的に道化調で
    ユーモラスでさえあることに注目したい。
    
    前月(S16/11)の文士徴用(太宰は不合格、徴用免除)で戦争を一層身近に感じた太宰の胸中
    は複雑で、開戦のニュースを聞いて不安や疑問はさらに増したはずだが、それを直截に表現する
    ことは憚られるので、妻の日記という形にして先の三つの視点を混在させ、道化の手法で太宰の
    胸中をはぐらかしている。例えば、次の記述などである。
   
    ・国を挙げて皇紀(紀元2600年)を祝った直後、100年後の2700年の読み方へのこだわり。
    ・戦端を開いた西太平洋の地図上の位置や愛国心に関する問答。
    ・「日本は勝ちます」という、あらたまった芝居がかった発言。
    ・国民に浸透している”鬼畜米英”といったプロパガンダを反映した妻の思いの大袈裟な表現。
    ・亀井家の主人を例に、開戦の日に直ちに対応、行動する人への賛辞。
    ・平生と変わらない町の様子について、「この静粛が、たのもしいのだ。」とする記述。
    ・軍歌は調子はずれで、歌詞は「我が大君に召されたるう、」と歌う。
     (注:この歌は「出征兵士を送る歌」。講談社が陸軍省と提携公募(S14)、一等当選曲。大ヒットした。)
    ・「夜道もなお白昼の如しだね。」と言って先に立ってどんどん歩いていく。
   
    これらは、とぼけ、茶化しなど道化的に表現され、まさに「どこまで正気なのか、呆れた主人」なの
    であって、ここに、戦争はして欲しくなかった、先行きは不安だらけだ、しかし自分には文学がある
    という太宰の本音と確信が示されるが、心底には時勢への無力感も広がっていただろう。

    「新郎」の場合は、開戦のニュースを聞いた直後に、大袈裟な自棄的と思える道化で失望、不安感
    を示したが、「十二月八日」は、時間的な余裕をもってあらためて練り上げた感がある。
    
    また、「新郎」と「十二月八日」には、道化的表現のほか、庭先に咲く山茶花の風情と幼子(園子)
    への親心、愛情を書いた共通点があり、ここに平穏、平和の尊さを象徴させたと読める。
    
    時勢は、満州事変(S6)から日中戦争(S12)、そしてついには超大国米英との開戦で、本音では
    この時勢に不安を覚え、国の在り方、方向に疑問を抱いた国民は多かっただろう。
    しかし、その大多数は、戦争賛美、迎合とか、体制批判、反戦といった政治思想や主義主張とは
    関係なく、逃げ場のない受け入れる他ない現実を前に戦勝を第一に願ったのではないだろうか。
    
    太宰もそうした国民の一人で、開戦の日に強い戸惑いを覚えながら、戦勝を願い、自分は文学に
    生きる、小説を書き続けるという決意を行間に込めたといえよう。

     (付記)太宰の小説「散華」(S19/3)のモデルである三田循司の日記が翻刻、
           公開されている。(慶應義塾志木高等学校 「研究紀要 第52輯」)

          
           三田は偶々この日(S16.12.8)に徴兵検査を受けており、日記には
           この日の生々しい心情や
街の様子などが綴られている。
           本作「十二月八日」だけでなく、「新郎」「散華」など太宰の戦中の
           作品を読むとき参考になる。

         
           別記項目太宰治「散華」-三田循司君はアッツ島で玉砕を参照ください。

 5.結び(作品評など)

   
    専門家による論評は、時勢への迎合か抵抗かを軸に、太宰の当時の立場を重く見てその複雑な
    個人感情、心情、茶化しや道化といった表現方法に言及する論調が多い。
    これは、前述したように、太宰は三つの視点から捉えた現実を妻の日記として混在させ、自身の
    思いは行間に潜ませたので、読み手がどの部分を重く読み取るかによるのだろう。

    ちなみに、時勢への迎合、戦争協力作品という立場は、
    ・小田切秀雄「文芸時評 太宰にたいしての志賀」(S23/11「文芸」)
    ・高木知子「太宰治-抵抗か屈服か」(S58/4「戦争と文学者」)
    ・赤木孝之「太宰治と戦争(1)」(1994/8「戦時下の太宰治」)
    ・都築久義「戦時下の太宰治」(H12/6「太宰治研究8」)など
    
    抵抗文学という立場は、
    ・花田清輝ら編集「日本抵抗文学選」収録(1955/11)
    ・奥野健男「十二月八日-解説」(S58/2新潮文庫「ろまん燈籠」)
    ・相馬正一(1995/2「評伝 太宰治(下)」)など。

    また、妻美知子は「回想の太宰治」(S53)に、開戦のニュースを聞いた時、大多数の国民はこれ
    により日中戦争などの問題に解決への道がついたという感想を持ったと思うが、太宰も同じように
    「大衆の中の一人であったように思う。」と書いている。

    そこで前述の私見のくり返しになるが、「十二月八日」の執筆について整理すると次のようになる。
    
    ・太宰の胸中は前月の文士徴用(S16/11)と井伏ら徴用員の戦地への出発に激しく揺れた。
    ・しかし、自分の生き方は文学を続けるしかないという決意を固め、「新郎」でそれを明示した。
    ・「新郎」出稿直前に、対米英開戦の臨時ニュースを聞いたが、この決意は不変だった。
    ・「新郎」出稿と同時に、開戦の日の現実を捉え、自分の思いを込めて「十二月八日」を起稿した。
    ・まず戦争に勝たなければならない。が、米英相手に戦争を始めて本当に大丈夫なのか・・。
     現実を見るとき、本音の部分で失望、不安感は拭えないが、それでも自分の文学を続ける決意
     に変わりはない。
    
    このように読むと、太宰は、厳しい言論弾圧の中、本音の部分を直接的に表現することはできない
    ので、「新郎」の場合と同様に道化や、庭の山茶花、幼子への愛情表現などに平和の尊さと平和を
    望む気持を象徴させ、開戦でも小説を書き続けるという自分の生き方をしのばせたと察せられる。

    妻美知子の記述にあるように、太宰は「大衆の中の一人」であり、開戦の日の心情は「勝たねば
    ならない」、「敵は超大国、不安は大きい」、「子供は宝・・安穏、平和を願う」、「しかし、
    戦争は始めたからには勝たねばならない」であったろう。
    それはその時点での自然な正直な気持であって、戦争賛美や迎合、体制批判、反戦といった意識、
    主義主張とは別のものだったはずである。
    
    この意味で、迎合か抵抗かの論点はあまり意味がなく、「十二月八日」は、「新郎」とともに、
    開戦の日の現実と大多数の日本人の心情を的確に捉え、個人としての戦時の覚悟、生き方を
    問い、自分は文学の道において国民としての務めを果たすという決意を示したといえる。

    本文中で「嘘だけは書かないで100年後に伝えたい」とわざわざ断ったのは、当局の厳しい
    思想、言論統制の下で執筆していることを示したかったのだろう。
    開戦日の現実を三つの視点から捉えて妻の日記として記録し、自分の思いは皮肉や茶化し、道化
    の手法で行間に込めるという、太宰ならではの工夫で仕上げた好短編と評価したい。
    
    100年後(2040)、今から17年後だが・・、多くの人々に読み継がれる作品に違いない。

  *ご参考:特定できる登場人物(()内年齢はS16/12当時:登場順)

    ・主人公は日記を書く主婦”私”=太宰治(32歳)の妻(29歳)、津島美知子(H9(1997)没)
         
    ・伊馬さん=伊馬鵜平(33歳:戦後、伊馬春部)、劇作家(本名高崎英雄:S59(1984)没)。
     二人が共に荻窪駅前に住んだ時(S8)から終生の親交。太宰は伊馬に色紙などを遺した。
    
    ・園子(太宰夫妻の長女)=津島園子(S16(1941).6.7~R2(2020).4.20没)。
    
    ・亀井さんの主人=亀井勝一郎(34歳)、評論家(S41(1966)没)。悠乃(4歳)は長女、妻は
     斐子(30歳)。日本浪曼派で会い(S10)、吉祥寺に住み、太宰の三鷹転居(S14)で戦中は
     親密に往来。この戦争を肯定した。詳細は別記項目「亀井勝一郎の人生と作品」参照。

    ・堤さん=堤重久(24歳)。東大在学中(S15末頃)に太宰に師事。「正義と微笑」(S17)は弟の
     康久の日記が題材。太宰とは親密で著書「太宰治との七年間」。戦後、京都産業大学名誉教授。
 
    ・今さん=今官一(32歳)。同郷出身(弘前市)の作家(S31、直木賞)。太宰を「海豹」創刊に
     誘い(S8)、太宰は文壇デビュー。戦後、三鷹に住み太宰と終生の親交。“桜桃忌”の提案者。

     .     

今、世界は新型コロナウィルスによるパンデミック、ロシアのウクライナ侵攻戦争、
北朝鮮のミサイル乱射や核実験の脅威、それに地球温暖化、異常気象や
経済の混乱に揺れている。世界は、日本は、どんな姿になっていくのか・・。
    
紀元2700年は17年後(2040)・・
太宰と伊馬が心配した読み方はどうなるか、あるいは読まれることはないのか・・
それはともかく、地球上の全てが安穏、平和であることを祈るほかない。

令和4年(2022)11月
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別記=太宰治「新郎」-太平洋戦争開戦の日、急遽、原稿に加筆


別記 「太宰治(人生と作品)」

別記 「太宰治 : 作品一覧」 

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太宰の身辺と執筆、発表作など一覧 (昭和16年(1941)~昭和17年(1942) 

 時代背景・太宰の身辺など 主な執筆・発表作品など

昭和16年

(1941)
 

S12/7~日中戦争続く(いわゆる泥沼化)

 /4 日ソ中立条約締結
 /4 日米交渉開始
 /6 独ソ戦開始
 /6 長女園子誕生
 
 
/8 米国、対日石油禁輸
 /8 義絶中も、母見舞いで生家訪問
 /9 太田静子来訪=初対面-S22「斜陽」

 /9 徳田秋声「縮図」、新聞連載中断
 /10 東条内閣成立
 /11 文士徴用、井伏ら南方へ1年間
 (太宰は肺疾患のため徴用不合格。
  文学活動継続

 /12.8 アジア・太平洋戦争開始
 (日本軍、マレー半島・ハワイ攻撃)


S15/12-S16/6 「ろまん燈籠」<婦人画報>6回連載
 /1 「東京八景」<文學界>発表
 /1 「みみずく通信」<知性>発表
 /1 「佐渡」<公論>発表
 /1 「清貧譚」<新潮>発表
 /2 「服装に就いて」<文藝春秋>発表

 /5 短編集『東京八景』(実業之日本社)刊行
 /6 「令嬢アユ」<新如苑>発表
 /6 「千代女」<改造>発表
 /7 初の長編『新ハムレット』(文藝春秋社)刊行
 
 /11 「風の便り」<文學界>発表
 /11 「秋」<文藝>(「風の便り」の完結部)発表
 /11 「旅信」<新潮>(「風の便り」の中間部)発表
 /12 「誰」<知性>発表(脱稿:S16/10中旬)
 /12 .2 「私信」<都新聞>(文藝「大波小波」欄掲載)


昭和17年

(1942)

 
 /2 阿佐ヶ谷会将棋会御岳遠足参加
   色紙に寄せ書き、戦地の井伏らへ

 /2 日本軍、シンガポール占領

 /5 日本文学報国会結成-戦争協力

 /6 日本軍ミッドウェイ海戦敗北
 /8 米軍ガダルカナル上陸

 /9~「横浜事件」-思想・言論の弾圧
  (強力検閲、出版の統制・整理続く)

 /10 母重態、妻子を連れて帰郷
    〈妻子は 初訪問)

 /11 第1回大東亜文学者大会開催
 /11 井伏、徴用解除で親密交遊再開
 /12 母逝去で単身帰郷

 
 /1 「恥」<婦人画報>発表脱稿:(S16/11上旬)
 /1 「新郎」<新潮>発表(脱稿:開戦日(12/8)頃)
 /1 「待つ」脱稿し<京大新聞>に送稿も時局不相応で
    掲載なく、/6 短編集『女性』(博文館)に収載発表
 /2 「十二月八日」<婦人公論>発表(脱稿:12/20頃)
 /2 「律子と貞子」<若草>発表(脱稿:S16/12下旬)
 
 /4 短編集『風の便り』(利根書房)刊行
 /5 「水仙」<改造>発表(脱稿:4月上旬頃)
 /5 短編集『老ハイデルベルヒ』(竹村書房)刊行
 /6 長編『正義と微笑』(錦城出版社)刊行(脱稿:/3)
 /6 短編集『女性』(博文館)刊行・・「待つ」初出。
 /7 「小さいアルバム」<新潮>発表(脱稿:6月上旬頃)

 /10 「花火」<文藝>発表、直ちに当局命令で全文削除
 /10 「帰去来」脱稿(帰郷が題材:初出はS18/6)
 /11 「黄村先生言行録」「故郷」「禁酒の心」執筆・脱稿
 
(執筆・発表状況の主な資料は、山内祥史の「太宰治の年譜」および「全集-解題」(筑摩書房刊))
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                (本項(太宰治「十二月八日」-太平洋戦争開戦、100年後に!) R4/11UP)