太宰治「律子と貞子」
開戦の時、プロポーズは姉に?妹に?

昭和16年(1941)12月8日 太平洋戦争が始まった。

太宰治は、この開戦時に次の四篇の短編小説 を執筆、発表した。

①「新郎」(S17/1:<新潮>)、執筆はS16.11下旬頃~S16..12.8頃。
②「十二月八日」(S17/2:<婦人公論>)、執筆はS16.12.20頃まで。
③「律子と貞子」(S17/2:<若草>)、執筆・脱稿はS16/12下旬頃。
④「待つ」(S17/6:創作集『女性』に収載)、執筆、脱稿はS17/1頃。

このうち、①「新郎」②「十二月八日」、④「待つ」については、次の項目に詳記した。

①太宰治「新郎」-太平洋戦争開戦の日、急遽、原稿に加筆

②太宰治「十二月八日」-太平洋戦争開戦の日、100年後に!

(②「十二月八日」の項に、開戦当時の太宰周辺の状況や
太宰の立場、心境などを詳記したので参照ください。)


④太宰治「待つ」-開戦の時、「私」は誰? 何を待つ?

本項では、③「律子と貞子」について、執筆意図、評価などを探った。


  1.「律子と貞子」 執筆と発表

  ・別項目に詳記の通り、大宰は太平洋戦争開戦を知って(S16.12.8)、急遽、「新郎」の原稿に加筆、
   出稿したと察せられる。予定通り「新潮」(S17/1)に掲載された。そして、直ちに「十二月八日」
   を起稿、12月20日頃までに脱稿したと推定され、「婦人公論」(S17/2)に掲載された。

  ・本作「律子と貞子」は、「若草」(S17/2)に発表された。原稿用紙15枚(文庫本で10ページ程度)
   の小品で、山内祥史は「「十二月八日」脱稿後の12月下旬に執筆脱稿されたのだろう。」とする。

    (ご参考・・本項末尾に 「太宰の身辺と執筆、発表作など一覧:昭和16年(1941)~昭和17年(1942)」)

 2. 作品内容(文面の概要)

   ①登場人物
        
    ・三浦憲治=今年12月(S16)に大学を繰り上げ卒業して直ちに帰郷(甲府市)、徴兵検査を
     受けたが極度の近視のため丙種だった。
     田舎の中学校で教師になることが決まったが、結婚相手に迷っている。
    
    ・「私」=三浦君から相談を受けた人物。
     「誰」と特定できる情報はないが、「私」の意見に続いて「読者は如何に思うや。」と結んだ流れ
     から、「私」は著者、つまり大宰とするのが自然である。

    ・律子=老舗旅館(下吉田(現富士吉田市))の長女(22歳)。旅館の手伝いをしている。
     自分の社会的立場をわきまえた、いわゆる「しっかり者」で、あまり感情を表面に出さず冷静に
     行動する。

    ・貞子=律子の妹(19歳:次女)。外聞は気にせず、自分の感情を素直に手紙や言葉、行動で
     表現する明るい性格。

     (律子も貞子も甲府の高等女学校に通い、その間、遠縁の三浦君の生家(大きな酒屋)に下宿
      した関係で二人とも三浦君を「兄ちゃん」と呼ぶ親しい間柄で、お互いに好意を抱いている。)

   ②物語の概要
    
    ・三浦君は、太平洋戦争開戦のすぐ後に、何年かぶりで下吉田の姉妹の旅館を1泊で訪ねた。
     姉妹は再会を喜んだ。一日目、特に妹の貞子は三浦君の傍を離れず自分の思いを熱心に話す
     もてなしだった。一方、姉の律子は旅館の泊り客のために女中と一緒になって応対するに忙しく、
     三浦君の元へはほとんど来られず、三浦君は寂しい思いをした。

     二日目、三浦君が帰る時、姉妹は見送りのため途中の停留所までバスに同乗することになった。
     ただ、世間体に配慮した姉の提案で、バスではお互いに他人の振りをすることになった。
     姉はその通り行動し、バスを降りても素知らぬ風で別れたが、妹はバスの中でも三浦君の方を
     チラチラ見ており、降りるとバスを追って走り「兄ちゃん!」と叫んで手を挙げた。
     
    ・三浦君は姉妹のどちらかと結婚したいと思っており、どちらがいいか「私」に意見を求めた。
     「私」なら迷わず、確定的だが、具体的に指図することは遠慮して、三浦君に聖書の一か所
     (ルカ伝十章三八以下)を読ませた。

    ・10日ほど経って三浦君から「姉の律子と結婚することに決めた。」という手紙が来た。
     「私」は、義憤に似たものを感じた。
     読者は如何に思うや。
    
 3. 主な論評などと参考資料

    すでに多くの専門家らによる解説や論評、論考がある。例えば、奥野健男、実方清、陸根和、
    佐古純一郎、木村小夜、武田秀美、小林幹也、で、その論考の掲載誌などは、
    「太宰治全作品研究事典」(H7/11:勉誠社)、「太宰治大事典」(H17/1:勉誠出版)などに
    紹介されている。

    ネット上にはこれらを加味した次の興味深い論考、座談会記事があるのでご紹介する。

    ・「『律子と貞子』再考-その意義をめぐって」(岩田海莉)
     (2019年度 名古屋大学学生論文コンテスト佳作受賞)

    ・作品把握の方法としての総合的読み
     座談会「『律子と貞子』をめぐって」(出席者:山下明・杉浦寿江・鈴木益弘)
     (「文学と教育」(1974:88号.p19-23))

 4. 私見:行間(太宰の本意)を読む

   短編で物語も単純明解、一読して三浦君の結婚相手選びを主題とする比較的軽い読み物かと
   思ったが、執筆の時期・時勢、聖書の引用、発表誌を思ったとき、締めの一句「読者は如何に
   思うや」の問いかけにはそれだけに止まらない意味がありそうに思えてきた。

   結論から示せば、若い女性たちに「今の生き方でいいんですか?」と問いかけた作品だろう。
   推測も交えた私見になるが、次に記す。

   ・太平洋戦争開戦と同時に大宰が執筆したのは「新郎」「十二月八日」で、そこに大戦への不安
    や安穏、平和を望む胸中をにじませながら自身の生き方を明示した。
    同じ時期、読者の多くが若い女性である「若草」に執筆機会を得て、大宰はその流れで若い
    女性たちに生き方を問いかけた。

   ・このころの太宰は聖書を題材にしたあるいは取り込んだ作品を数多く発表している。
    聖書に親しみ、造詣を深める中で、日本女性の生き方について思うところがあったのだろう。
    
   ・「律子」は当時の日本女性の模範的生き方とされるしっかり者「良妻賢母」型とすれば、「貞子」
    は既存の規範に縛られず、自分の思い、意思に従って行動するいわば「自由行動」型だろう。

   ・「私」は「ルカ伝十章三八以下」を三浦君に示して貞子を選ぶよう暗示したというが、マルタ、
    マリアは必ずしも律子、貞子に合致しない。もともと恋愛や結婚に関する教えではなく、最も大切
    なことは教えをよく聞くこと、つまり信仰を深めること、自分を高めることと説いているのである。
    「貞子」は、聖書の記述を通して太宰が好ましい一つの女性像として描いた姿といえよう。
    
    結婚に関しては、男性に選ばれるのを待つのではなく、自らの気持、意思をしっかり持って、
    それを素直に相手に伝えるような生き方を推したということだろう。
     
   ・日本は日中戦争の長期化で戦時色が強まり、新体制による個人生活への締め付けは強化され、
    特に表現の自由は極度に制限され、統制、検閲強化などで心の自由さえも奪っていった。
     
    大宰は、太平洋戦争突入でこの流れに拍車がかかることを懸念し、戦争完遂をスローガンに
    男性社会に翻弄され続ける女性、特に若い女性に、あえてこれからの生き方を問うたのである。

    既存の価値観、社会規範、常識に従っていればいいのか? 自分を高め、自らの心を素直に
    表現する生き方はどうだろう?・・などを聖書の引用や検閲に配意した記述を組み込むことで
    示唆し、併せて体制、時勢への抵抗をにじませ、国の進む道に警鐘を鳴らした・・と解したい。

    *ところで、もう一つの視点・・女性像のモデル

     憶測に過ぎないが、私には気になるもう一つの視点がある。
     それは、「律子」と「貞子」という仮名自体に意味があるとする論説があり、なるほどと思うが、
     それだけでなくこの女性像のモデルは「妻美知子」と「太田静子」ではないかということである。

     ・太宰の家庭生活は、この時期が生涯で最も安定し、平穏だったといえるが、長女園子は生後
      6か月、妻美知子は育児に手一杯で、夫大宰への対応に緩むことがあり、甘え性といわれる
      大宰が寂しい思いをすることがあったかもしれない。
      
      美知子は、もともといわゆる才媛で、女性像としてはしっかり者の「律子」のイメージである。
      この状況が作品に反映されたと思えるのである。

     ・一方、「太田静子」とは3か月前の9月に三鷹の自宅で初対面したが、太宰は多くの来訪者の
      中で静子には特に関心を持った。このころの太宰と静子との関係については、堤重久の
      「太宰治との七年間」(S44)に記されており、大宰の静子への執心ぶりが窺える。
      
      相馬正一の「評伝太宰治(下)」によれば、この堤の記述も、静子の著書「あはれわが歌」
      (S25)にある記述、「開戦後10日程経った日に太宰から2時に東京駅で待つという電報を
      受け取り、急ぎ出かけて初めて二人だけの時間を持った。」も、ほぼ事実と確認したとある。
      
      東京駅でのことは「律子と貞子」執筆の時期に重なるのである。
      
      大宰が二つの異なる女性像を描くにあたって、「貞子」像にはこの太田静子が意識にあったこと
      は間違いなかろう。

     ・となれば、「三浦君」は「私」(=太宰)の分身で、「私」は客観的立場に立つ手法だろう。

 5. 結び・・女性の生き方の多様性に繋がる作品
     
    (1)太平洋戦争開戦時四作品中の前2作は開戦に正面から向き合ったのに対し、後の2作は
       直接には触れていない。
       本作「律子と貞子」は大戦という時代を背景に若い女性層に「どう生きますか?」と問いかけ
       ながら体制、時勢に太宰流の抵抗、警鐘をにじませた作品になっている。

    (2)大宰のこの時期の太田静子への対応は、堤の上記著作などから遊び心に発していたと思える
       が、作品を読んだ静子は「これは自分へのメッセージ」と受け止めてもおかしくはない。

       戦争を挟んだその後の経過、結果からすると、静子にとってはこの作品は「斜陽」に繋がって
       おり、「斜陽」後の静子は、長い苦しい激動の実人生を送ることになる。
       
       大宰は人生を途中で自ら降りてしまったが、静子は身をもって「斜陽 第九章(=最終章)」
       を完成させたといえよう。この意味で「律子と貞子」は「斜陽」の「序章」とも読める。

         (この詳細は別記項目「太宰治と太田静子と「斜陽」参照)

    (3)一読、開戦時の発表にしては軽い筆致の単純な物語で、目立たない小品である。
       新潮文庫には長年収録されず、「地図-初期作品集」(H21/5)に載せた。本書は初期の
       習作などを主体とし、未収録だった作品などを拾った形の構成で、扱いの軽さが窺える。

       しかし、家庭生活は安定の時期とはいえ、太宰を取り巻く状況は、徴用不合格(S16/11)、
       大戦勃発、太田静子との出会い、結婚時の井伏宛誓約書(S13/10)のことなど大宰の胸中は
       複雑に揺れており、この背景は濃淡の差はあるものの前2作に続き本作品にも反映され、
       次作「待つ」以降の戦中作品に引き継がれている。

        (状況の詳細は別記項目「十二月八日」-太平洋戦争開戦の日、100年後に!参照)

     本作で若い女性に問いかけた生き方は「斜陽」の「恋と革命」に通じ、静子の実人生を方向づけた
     だけでなく、現代女性の生き方の多様性へと繋がっている。
     
     また、太宰にとっても、戦後の実生活、文学活動の大波乱は、この作品に発しているといえよう。
     
     「律子と貞子」は、あまり話題にならない、目立たない小品だが、大宰が置かれた立場、心情も
     込められており、軽さはあるが立派に開戦時四作の一角を成している。
     現代において読み直す価値があり、もっと注目されるべき作品と考える。

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別記 「太宰治(人生と作品)」

別記 「太宰治 : 作品一覧」 

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(ご参考)太宰の身辺と執筆、発表作など一覧 (昭和16年(1941)~昭和17年(1942)
 時代背景・太宰の身辺など 主な執筆・発表作品など

昭和16年

(1941)
 

S12/7~日中戦争続く(いわゆる泥沼化)

 /4 日ソ中立条約締結
 /4 日米交渉開始
 /6 独ソ戦開始
 /6 長女園子誕生
 
 
/8 米国、対日石油禁輸
 /8 義絶中も、母見舞いで生家訪問
 /9 太田静子来訪=初対面-S22「斜陽」

 /9 徳田秋声「縮図」、新聞連載中断
 /10 東条内閣成立
 /11 文士徴用、井伏ら南方へ1年間
 (太宰は肺疾患のため徴用不合格。
  文学活動継続

 /12.8 アジア・太平洋戦争開始
 (日本軍、マレー半島・ハワイ攻撃)


S15/12-S16/6 「ろまん燈籠」<婦人画報>6回連載
 /1 「東京八景」<文學界>発表
 /1 「みみずく通信」<知性>発表
 /1 「佐渡」<公論>発表
 /1 「清貧譚」<新潮>発表
 /2 「服装に就いて」<文藝春秋>発表

 /5 短編集『東京八景』(実業之日本社)刊行
 /6 「令嬢アユ」<新如苑>発表
 /6 「千代女」<改造>発表
 /7 初の長編『新ハムレット』(文藝春秋社)刊行
 
 /11 「風の便り」<文學界>発表
 /11 「秋」<文藝>(「風の便り」の完結部)発表
 /11 「旅信」<新潮>(「風の便り」の中間部)発表
 /12 「誰」<知性>発表(脱稿:S16/10中旬)
 /12 .2 「私信」<都新聞>(文藝「大波小波」欄掲載)


昭和17年

(1942)

 
 /2 阿佐ヶ谷会将棋会御岳遠足参加
   色紙に寄せ書き、戦地の井伏らへ

 /2 日本軍、シンガポール占領

 /5 日本文学報国会結成-戦争協力

 /6 日本軍ミッドウェイ海戦敗北
 /8 米軍ガダルカナル上陸

 /9~「横浜事件」-思想・言論の弾圧
  (強力検閲、出版の統制・整理続く)

 /10 母重態、妻子を連れて帰郷
    〈妻子は 初訪問)

 /11 第1回大東亜文学者大会開催
 /11 井伏、徴用解除で親密交遊再開
 /12 母逝去で単身帰郷

 
 /1 「恥」<婦人画報>発表脱稿:(S16/11上旬)
 /1 「新郎」<新潮>発表(脱稿:開戦日(12/8)頃)
 /1 「待つ」脱稿し<京大新聞>に送稿も時局不相応で
    掲載なく、/6 短編集『女性』(博文館)に収載発表
 /2 「十二月八日」<婦人公論>発表(脱稿:12/20頃)
 /2 「律子と貞子」<若草>発表(脱稿:S16/12下旬)
 
 /4 短編集『風の便り』(利根書房)刊行
 /5 「水仙」<改造>発表(脱稿:4月上旬頃)
 /5 短編集『老ハイデルベルヒ』(竹村書房)刊行
 /6 長編『正義と微笑』(錦城出版社)刊行(脱稿:/3)
 /6 短編集『女性』(博文館)刊行・・「待つ」初出。
 /7 「小さいアルバム」<新潮>発表(脱稿:6月上旬頃)

 /10 「花火」<文藝>発表、直後に当局の命令で全文削除
 /10 「帰去来」脱稿(帰郷が題材:初出はS18/6)
 /11 「黄村先生言行録」「故郷」「禁酒の心」執筆・脱稿

 (執筆・発表状況の主な資料は、山内祥史の「太宰治の年譜」および「全集-解題」(筑摩書房刊))
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     (本項(太宰治「律子と貞子」-開戦の時、「読者は如何に思うや」) R5/9UP)