・・太宰治に関するミニ案内(#2408)・・
太宰治は荻窪で作家生命を三度救われ「中期」へ
第1の危機 : 鎌倉山中自殺(縊死)未遂 ・・飛島定城の進言
・昭和10年(1935)3月15日、太宰は横浜で友人と別れた後、消息を絶った。 その直前に自殺をほのめかす言動があり、翌16日に飛島定城(太宰と荻窪駅前の 借家に同居)は、井伏や友人らに知らせ、文治に電報を打つなど大騒動になった。 ・太宰は鎌倉の山中で自殺(縊死)を図ったが失敗して3日後の18日夜に帰宅した。 *文治は怒り、帰郷させるつもりで上京した・・ ・自殺の動機や実行状況は明らかでないが、上京した文治の胸中は穏やかでなく、 太宰を帰郷させるつもりだった。 ・結果的には、太宰は東京で文学を続けることになった。 この経緯について、主な年譜、評伝類は「井伏鱒二らのとりなしによる」となって いるが、これは疑問で文治を翻意させたのは飛島定城と推察できる。 (詳細は、別記項目「太宰治(人生と作品)-失踪・自殺未遂」(サイト内リンク)参照) 第2の危機 : パビナール(麻薬)中毒 ・・井伏鱒二の協力 ・自殺(縊死)未遂があった翌月(S10/4)、太宰は盲腸炎で入院、手術を受けたが 腹膜炎を併発し、激痛のため麻薬性鎮痛薬パビナールが投与(注射)された。 太宰は痛みを訴え、使用をせがんだため投与量は増えていった。パビナールは 依存性がある麻薬で、太宰はいつしかパビナール中毒になっていた。 ・退院後、肺結核もあったため転地療養することになり、船橋(千葉県)に転居したが (S10/7)、近所の薬店からパビナールを購入して常用したため中毒は進行し、 太宰の心身を蝕み、生活費に窮する状況になった。 ・妻初代は北芳四郎に相談し、北は文治にも連絡して太宰を東京武蔵野病院に 入院させることにした。井伏が船橋を訪ね、太宰に懇願 するように受診を説得し、 太宰は抗しきれずに同行受診、即入院(S11.10.13)となった。 ・後に太宰が「強制入院」、「人間失格」という入院で、個室に監禁状態で1カ月、 禁断症状に苦しむ治療を経て完治し、11月12日退院となった。 *文治は嘆き、今回も帰郷させるつもりで上京したが・・ ・退院時に関係者が相談し、井伏の意見で東京で文学生活を続けることを認めた。 ただし、仕送り(月90円)は30円ずつ月3回、井伏経由で渡すことになった。 (詳細は、別記項目「太宰治(人生と作品)-入院1カ月・完治」(サイト内リンク)参照) 第3の危機 : 初代と離縁、デカダン生活 ・・井伏の労と美知子の結婚決断 ・昭和12年(1937)3月上旬、太宰は遠戚の若い親しい友人小館善四郎から「太宰の 入院中に初代と性的関係を持った」と驚愕の告白を受けた。 太宰に問い詰められた初代は事実と認め、二人は3月20日頃に水上温泉へ行き、 谷川岳の麓で催眠薬を服用して心中を図ったが未遂に終わり、別々に帰京した。 この時点で二人の6年余りにわたる結婚生活(入籍なし)は事実上終了した。 ・太宰は井伏宅に近い下宿「鎌瀧」に転居(S12/6)し単身生活となった。 井伏は「太宰君の生涯の中で最もデカダンス」と評する生活が続き、執筆はしたが 発表はできない状況で、太宰は破滅を認識し本気で文学での再起を決意した。 ・井伏の誘いで「鎌瀧」を退去(S13/9)、甲府に近い御坂峠の天下茶屋に逗留した。 、井伏の伝手で甲府で石原美知子(26歳)との見合いが実現し、太宰は美知子 との結婚を熱望した。井伏に誓約書を提出して仲人の役割を続けるよう懇請した。 ・井伏夫妻が媒酌人で井伏宅で結婚式(S14(1939).1.8)が行われた。津島家は この結婚には関与せずの対応で、中畑慶吉と北芳四郎が津島家側として出席した。 ・当日の夜、太宰と美知子は甲府の新居(借家)に帰り、新生活をスタートさせた。 (詳細は、別記項目「太宰治(人生と作品)-妻初代が・・」(サイト内リンク)参照) =荻窪時代を修了、節目の出立で太宰文学における「中期」の幕開けだった= -------------------------------------- (本項「太宰治は荻窪で作家生命を三度救われ「中期」へ」 2024/8UP) |