井伏鱒二と「サヨナラだけが人生だ」(勧酒)


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唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩「勧酒」(かんしゅ)に付した井伏の訳は妙訳として名高い。
井伏鱒二の項でも触れたが、書き下し文、和訳、意味などについて詳記する。

 


           勧 酒  (于武陵)    (書き下し文)  酒をすすむ 

           勧君金屈巵         
きみすすむ 金屈巵きんくつし
           満酌不須辞         満酌まんしゃく するをもちいず
           花発多風雨         
はなひらけば 風雨ふううおお
           人生足別離         
人生じんせい 別離べつり

          和訳(直訳)    (井伏鱒二の訳) 
 君に この金色の大きな杯を勧める   コノサカヅキヲ受ケテクレ
 なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ  ドウゾナミナミツガシテオクレ
 花が咲くと 雨が降ったり風が吹いたりするものだ   ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 人生に 別離はつきものだよ  「サヨナラ」ダケガ人生ダ

(註)・金屈巵=把手(とって)がついた黄金の大型の杯。
   ・満酌=杯になみなみと酒をつぐこと。
   ・不須辞=
辞退する必要はない。
   ・足=多い。

 
 
{参考サイト} (広島県観光連盟)
 ひろしま観光ナビ 観光スポット
       −井伏鱒二文学碑

    ★ 書き下し文について     

極く一般的な書き下し文を載せた。ネット検索すると、微妙に異なる文も見受ける。
例えば、「花発多風雨」は、「花発(ひら)いて」が相当数あり、
「人生足別離」は、「人 生きては 別離足(み)つ」や「別離足(おお)し」がある。 

    ★ 和訳(直訳)について

定型的な訳が見当たらなかったので、ネット上の多くの訳を、私が直訳的に編集した。

    ★ 詩の意味(捉え方)・・ “惜別” 派 or “一期一会” 派 ?

この詩の捉え方は二通りある。 「別れの時が来たので その別れを惜しむ」  と捉える
いわば “惜別” 派 か、「人生に別れはつきもの、いつ何時別れが来るか判らない。
今、この時をこそ大事にしよう」 と捉える いわば “一期一会” 派 か、である。

いずれにしろ、この詩の主題は「別離」にあり、仏教でいう「会者定離」に通じている。
それをどう捉えるか、受け止めるかは 各人それぞれの心境如何ということになる。

私は、以前は断然に「惜別派」だったが、現役を退き、加齢が進んだ今、「一期一会派」の
気持が解るようになった。 お互いが元気に酒を酌み交わせるのは何時までだろう・・
友らとの置酒歓談、和顔愛語は至福のひと時、この時をこそ大事にしたいと思うのである。


(推奨参考文献:松浦友久編著「校注唐詩解釈辞典」(大修館書店:1987))

    ★ 井伏鱒二と漢詩の和訳

     「サヨナラ」ダケガ人生ダ ---

井伏が「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」としたのには、林芙美子が関係している。
井伏は、昭和6年4月に講演のため林とともに尾道へ行き、因島(現尾道市)に寄ったが、
その帰り、港で船を見送る人との別れを悲しんだ林が「人生は左様ならだけね」と言った。

井伏は「勧酒」を訳す際に、この “せりふ” を意識したという。(「因島半歳記」(S33)および
「年譜」)。 井伏は、この時の林の “せりふ” や挙動を、照れくさくて、何とも嫌だと思った
とも書いているが、この訳が妙訳として多くの人々の口に上るのが、また何とも面白い・・。


ところで、井伏は「惜別派」か、「一期一会派」か・・。 林芙美子とのエピソードからすると
「惜別派」のようでもあるが、「ハナニアラシノタトヘモアルゾ」とした、この「タトヘ」の
文言から、まだ別れの時は来ていないとのニュアンス、つまり「一期一会」派とも思える。

井伏がこの訳を発表(S10)したのは37歳の時、どんな心境に傾いていたか判らないが、
私見では、井伏の生涯を通じた生き様から、「一期一会」派が相応しいように思う。

     ・漢詩の和訳17篇のこと --- 

井伏は、漢詩17篇の和訳を発表している。 「田園記」(<文学界>:S8/10)に10篇、
「中島健蔵に」(<作品>:S10/3)に「勧酒」を含む7篇である。 (後に、多くの出版社
が刊行している「厄除け詩集」は、この17篇の訳部分を他の詩とともに収めている。)

井伏は「田園記」に次のように書いて、10篇を載せた。(初出(S8)に作者名なし)

「私は亡父の本箱のなかをかきまはして和綴ぢのノートブックをとり出し、かねがね私の愛誦してゐた
漢詩が翻訳してあるのを発見した。それは誰が翻訳したのか訳者の名前は書いてないが、ノートブック
にこまかい字で訳文だけが記されてゐた。きっと父が参考書から抜き書きしたのであらうと思はれる。
漢籍に心得のある人には今更ら珍らしくもない翻訳であるかもしれない。私は自分の参考にもなるだらう
と思ふのでここにすこしばかりそれを抜粋して、その原文をも書いてみよう。かういふ慰みの翻訳は、
今から三十年前ころの同好者のあひだに行はれてゐたのかもしれない。」 (随筆集「田園記」(S9)より)


「原題」(作者)・・「題袁氏別業」(賀知章)、 照鏡見白髪(張九齢)、 送朱大入秦(孟浩然)、 春暁(孟浩然)
洛陽道(儲光羲)、 長安道(儲光羲)、 復愁(杜甫)、 逢侠者(銭起)、 答李澣(韋応物)、 聞雁(韋応物)


「中島健蔵に」 には、次のように書いて、7篇を載せた。

「・・・。この不安な気持ちをまぎらすため、日ごろ愛誦している漢詩の翻訳でも書いてみる。僕の
随筆集「田園記」のなかに入れてゐる第二章「田園記」の続きだと思って判読していただきたい。」

「原題」(作者)・・「静夜思」(李白)、 「田家春望」(高適)、 「秋夜寄二十二員外」(韋応物)
「別盧秦卿」(司空曙)、 
「勧酒」(于武陵)、 「古別離」(孟郊)、 「登柳州蛾山」(柳宗元)

(「静夜思」(李白)の訳文は、初出の「中島健蔵に」と後の「厄除け詩集」では異なる。)


井伏は、「この訳詩は亡父のノートからの抜粋」 としているが、寺横武夫、相馬正一らの
研究者によれば、「勧酒」は独創といえるが、他はほとんど江戸期の訳「臼挽歌」
(江戸中期の俳人中島魚坊(潜魚庵)訳)の焼き直しであるという。
井伏は、「臼挽歌」の存在には気付かなかったようだ。

全17篇が妙訳であることは確かだが、「勧酒」のほかは “井伏の妙訳” は幻だった。

なお、相馬正一著「井伏鱒二の軌跡」(1995:津軽書房)は、井伏の訳17篇に対応する
「臼挽歌」の訳文などに関し詳記している。 ちなみに「勧酒」の訳文は次の通りである。
「井伏の盗作」 が取り沙汰されるが、井伏の独創的な絶妙な訳であることが解る。

「さらばあげましょ此盃で
てふと御請けよ御辞儀は無用
花が咲ても雨風にちる
人の別れもこのこころ」

     ・訳詩の “盗作” 批判について

これらの訳詩については 「井伏の盗作」 であるかの如き批判があるが、上記のように、
井伏は、初出時に 「父のノートから」 と記した。原典を確認しなかったことは迂闊であり、
現在の尺度からすれば軽率の謗りは免れないが、当時の日本社会の一般認識を勘案
すれば、それほどに責められなければならないことか、私は、批判は当たらないと思う。


なお、「臼挽歌」について、相馬正一ら研究者が掲げる参考文献は、寺横武夫
(近代文学研究家)の論文 「『人生足別離』考」(1992/12)近代文学試論>)と、
同 「井伏鱒二と『臼挽歌』(1994/6<解釈と鑑賞>) の二著である。

文学関係者の間で 「臼挽歌」 の訳文が広く認識されるようになったのは、
戦後、それも相当に時間が経ってからのことではないだろうか。
ちなみに、木山捷平は 「井伏鱒二」(S39/10 <群像>) の中で井伏の
訳詞に触れているが、「臼挽歌」 のことは全く知らない書き方である。



なお、盗作問題については、井伏鱒二の「盗作疑惑」を解明する に詳記した。

    ★ 寺山修司 “さよならだけが 人生ならば”

寺山修司は、この井伏鱒二の 「サヨナラだけが人生だ」 を受けて、

“さよならだけが人生ならば また来る春は何でしょう” で始まり、 “さよならだけが人生ならば
人生なんか いりません” で終わる詩「幸福が遠すぎたら」 を発表した。

「人生処方詩集」(1993:立風書房)、「寺山修司詩集」(2003:ハルキ文庫)などに
収められているが、ネット上の話題としても取り上げられている。


              (井伏鱒二と「サヨナラだけが人生だ」(勧酒): H25/4 UP)
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