1.太宰 治:ペンネームの由来
①本人談: 「太宰」= 万葉集 - 大宰府 - 大伴旅人 - 酒を愛す - 「太宰」
*太宰は、「パンドラの匣」映画化時に、主演女優関千恵子のインタビューに
次のとおり答えている。(「大映ファン」:S23/5))
「特別に、由来だなんて、ないんですよ。小説を書くと、家の者に叱られるので、
雑誌に発表する時、本名の津島修治では、いけないんで、友だちが考へてくれ
たんですが、万葉集をめくつて、初め、柿本人麻呂から、柿本修治はどうかと
いふんですが、柿本修治は、どうもね。そのうち、太宰権帥大伴の何とかつて
云ふ人(注)が、酒の歌を詠つてゐたので、酒が好きだから、これがいゝつて
いふわけで、太宰。修治は、どちらも、おさめるで、二つはいらないといふので
太宰治としたのです。」
(注)大伴旅人(たびと)…大伴家持の父のことで、正しくは太宰権帥(だざいのごんのそち)では
なく「太宰帥(だざいのそち)‥つまり、大宰府の長官。
万葉集「巻三」にあ讃酒歌十三首」(歌番号338~350)が有名。
②妻美知子は、著書に、太宰と知り合った頃、筆名の由来を聞いたが、その時、
万葉集云々と同じような答えだったと書いており、「あれこれと凝って考えた末の
命名でなかったことは確実である。彼の性格からいっても、意味ありげな筆名を
つけるなど考えられない。」としている。(「回想の太宰治-筆名」(S53/5))
③師の井伏鱒二は、太宰からペンネ―ムを決めたと聞いたとき、「従来の津島
では、本人が云ふときには「チシマ」ときこえるが、太宰といふ発音は津軽弁でも
「ダザイ」である。よく考えたものだと私は感心した。」と書いている。
(「太宰治集 上-解説」(S24/10::新潮社)
2.「太宰 治」名で発進(S8/2)
・「太宰治」名で発表した最初の小説は「東奥日報」懸賞入選作「列車」(S8.2.19)
だが、同時期発表の「魚服記」(S8/3:「海豹」創刊号)が好評で文壇デビューと
なった。
(謄写版印刷の「海豹通信」(S8..2.15)に「田舎者」と題して「太宰治」名で自己紹介している。)
(「海豹」創刊は別項「太宰治(人生と作品)-<海豹>と古谷サロン」(サイト内リンク)参照)
・中学時代からこれまで、本名のほか辻島衆二、大藤熊太、小菅銀吉など大衆風の
名前を使用していたが、この後は、探偵小説「断崖の錯覚」(S9/4)で「黒木舜平」
の名を使用したほかはすべて太宰治の名で発表している。
3.ペンネーム由来の諸説
・太宰本人の言や美知子の記述があり、すでにその由来は明白というべきだろうが、
太宰の生き様や過去の筆名、作中人物名への拘りなどからネット上などに「フランス
文学者、大宰施門」説、「弘高の同級生、太宰友次郎」説、「ダダイズム」説、
「ダァ・ザイン(da sein)」説、「堕罪」説、その複合説など、様々な憶測がある。
・これに関し、私は、このペンネームを決めた頃の太宰が置かれた立場、環境をも
勘案すると、本人の説明をそのままは受け入れ難い。
太宰は昭和7年末~8年(1933)にかけて新たな名前を考えており〈注)、左翼
活動との絶縁を誓約(S7/7)して創作に専念するしかなくなっていた時期に当る。
諸々の葛藤の中で何日間かをかけて熟慮した末に決めたはずで、憶測ではあるが、
私は、決め手は「ダァ・ザイン(da sein)」(独語で「存在」の意)と思っている。
(詳細は、別項「太宰治(人生と作品)-ペンネーム」(サイト内リンク)参照)
(注)山内祥史著「太宰治の年譜」によれば、友人に意見を聞いており(S7/11)、
この時に同級生の「太宰」の名が挙がったという。
★「令和」の出典
「令和」=万葉集-大宰府-大伴旅人-酒を愛す-梅花の宴(序文)-「令和」
万葉集に梅花の歌三十二首が載り、序文に「初春の令月にして、気淑く風和らぎ、
梅は‥」(「巻五」)とある。原文は「初春令月 気淑風和」で、作者は「大伴旅人」
とする説が有力である。(中西進著「大伴旅人 人と作品」(2019/9:祥伝社)
(本項「太宰治(本名津島修治)のペンネームの由来など」 2024/9UP)
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