・・太宰治に関するミニ案内(#2410)・・
太宰治と三島由紀夫の対面と三島の「嫌いです」発言の真相
太宰治と三島由紀夫は、ある会合
〈注)で生涯一度の対面をした。
〈注)会合=昭和21年(1946)12月14日の夜、府立五中(現・都立小石川高校)
出身の若い文学仲間10人ほどが、仲間の下宿に太宰と亀井勝一郎を招いて飲み会
を開き、三島(当時東大の学生)は、その仲間の一人に誘われて出席した。
この対面について、三島は自伝
「私の遍歴時代」(S38:(1963)/1-10:東京新聞夕刊)
に「7、8」の2項目にわたって詳記しており、太宰に向かって「僕は太宰さんの文学は
きらいなんです」と言ったと書いている。三島は、既に「小説家の休暇」(S30)などで
強烈な「太宰嫌い」を表明しており、この発言は一般に事実として受け取られている。
しかし後年、この会合の同席者から、この会話は「三島の創作」ではないかとの疑念が
示されており、もしそうだとすれば、自伝に創作を交えた意図は何かを考えてみた。
参考資料などを含め詳細は、次の別項目に記したので参照ください。
「太宰治と三島由紀夫の対面・会話の実際と三島の”太宰嫌い”」 (サイト内別項目)
1.三島が書いた二人の会話(前出「私の遍歴時代 8」より)
三島「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
太宰(だれへ言うともなく)「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、
やっぱり好きなんだよな。やっぱり好きなんだ」
2.会合に三島を誘って同行した矢代静一の記述
私は三島と太宰のこの一言を聞き洩らしているとしたうえで「現在の私は、こう思って
いる。<ひょっとしたら、この三島の文章は、彼の創作なのではなかろうか。あとから
つけた理屈ではないのか?>あとになって、同席した文学青年たちに尋ねてみたが、
誰も三島の一言は聞いていなかったと言っていた。」
(矢代静一著「往事渺々」(H8/7:「太宰治研究3」(和泉書院)より)
3.「私の遍歴時代 7、8」は、ほぼ「三島の創作」
①矢代のほか、中村稔、高原紀一、野原一夫にも会合を回想する文章があり、また、
三島研究者の越次俱子には出席者らからの聞き取りを交えた論考がある。
これらを総合すると、三島の「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」も、太宰の
「来ているから好きなんだ」発言も、同席者は聞いておらず〈注)、この発言は
無かったと言えよう。つまり、この会話は三島が創作した可能性が大である。
〈注〉 野原だけは、「三島の「嫌いです」発言を聞いた」と書き、続けて太宰の「来ているから
好き」発言は聞いていない、「嫌いなら来なければいいと言った」と書いている。
太宰の発言が主眼の書き方で、三島の発言は自伝からそのまま引用したものと察する。
また、会合日を「1月26日」と特定しているが、これは矢代の回想「三島と太宰」(S46)中
の日記の日付に合致、誤読と察せられる。(野原の「回想 太宰治」(S55/5)より)
野原には太宰回想の作品が多いが、この対面に関する記述は他には見当たらない。
②この会話が載る「私の遍歴時代 8」には、この会話に限らず、文章全体の信憑性に
関わる次の疑問がある。
・三島は、森鴎外について太宰に質問したが太宰はまともには答えず、はぐらか
された三島はムキになって持論を述べて座は白けた。(多くの出席者が一致)
三島はこのことには全く触れていない。
・三島は「気まずくなって、そのまま匆々に辞去した」と書くが、実際には最後
まで居て中村と一緒に渋谷まで帰っている。
③「同 7」に書かれた会合出席経緯は明らかに事実でなく、ここに「斜陽」批判を
載せたこと自体に作為を感じるが、しかもこの批判内容は、華族の言葉遣い
などに関する志賀直哉の当時の批判(S23/6「文藝」)の二番煎じである。
記憶の薄れや勘違いでは説明できない奇妙な記述である。(注)
(注)太宰の「斜陽」起稿はこの会合(S21.12.14)の後である。また、三島は
「斜陽」連載中に川端康成宛書簡で「斜陽」について書いているが、ここでは
華族の言葉使いには全く触れず、むしろ作品の芸術的完成を期待している。
④このように三島の「私の遍歴時代 7、8」の文章には創作と思しき部分が多く、
ここに三島の特別の意図が込められていると言えよう。
4.三島の意図は「太宰の全否定」
・三島は既に「小説家の休暇」(S30)で、太宰の容貌から行動、性格までを嫌悪し、
「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や
規則的な生活で治されるはずだった。」と書き、治りたがらない病人、弱々しい
文体、受難の表情の狡猾さ、などと評して感覚的な太宰嫌いを強調した。自分の
文学、生き方は太宰と異なることを際立たせた、いわば自己PRだったと言えよう。
その後暫くは、太宰を標的にした積極的な発信は見当たらないが、7年余を経て
新聞連載の自伝「私の遍歴時代」に、17年も前に太宰と対面した事実を持ち
出して創作を加え、強烈な太宰批判を再開した。
今回注目すべきは、太宰嫌いの理由に関し、自分と太宰の根源にある類似性を
認めていることである。根源は似ているが自分は太宰とは異なった道を歩んだと
して、太宰の弱さを浮き彫りにし現在の自分の強さを誇示しているように読める。
・ 三島は5年後(S43)の大藪春彦との対談で「大宰という存在そのものは唾棄
すべきもんですよ。」と言っていることからも、「私の遍歴時代」に込めた三島の
意図は太宰文学の抹殺、太宰の全否定にあったと言ってよかろう。
5.「三島の意図」のなぜ?
・太平洋戦争戦後18年、太宰との対面から17年、太宰の死からは15年、時代は
大きく変わり、三島は戦後派の大作家として名を成し、いわば新時代の寵児として
文学以外の分野でも幅広く活躍していた。
その三島が、この時期になぜ自伝に創作を交えるようなことまでして太宰を貶める
強烈な「太宰嫌い」発信を再開したのか?
このころの三島の著しい右傾化や三島を取り巻く環境の変化、過去の作家とはいえ
衰えず、むしろ高まりを見せる太宰人気などが絡み合って 三島の心は穏やかで
なかったことに発すると思うが、これについての詳細は下記別項目に記した。
・間もなく三島生誕100年(R7(2025)/1/14)、壮絶死から55年の節目だが、この
「嫌いなんです」発言は、現在は、対面時の真相、発表時の三島の意図、時代背景
やその流れなどとは無関係に、三島の「太宰嫌い」の象徴として広く語られている。
・・参考資料などを含め、詳細は次の別項目に記したので参照ください・・
「太宰治と三島由紀夫の対面・会話の実際と三島の”太宰嫌い”」(サイト内別項目)
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(本項「太宰治と三島由紀夫の対面と三島の「嫌いです」発言の真相 2024/10UP)
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