太宰治の「太平洋戦争 開戦時四部作」-新郎・十二月八日・律子と貞子・待つ
昭和16年(1941)12月8日 太平洋戦争が始まった。

太宰治は、この開戦時に、次の四篇の短編小説 を執筆、発表した。

①「新郎」(S17/1:<新潮>)、執筆はS16.11下旬頃~S16..12.8頃。
②「十二月八日」(S17/2:<婦人公論>)、執筆はS16.12.20頃まで。
③「律子と貞子」(S17/2:<若草>)、執筆・脱稿はS16/12下旬頃。
④「待つ」(S17/6:創作集『女性』に収載)、執筆、脱稿はS17/1頃。

四篇とも短編(*)、「私」語りの単純、平易な物語、文章で読みやすい。

太平洋戦争開戦を受け入れ、戦争協力の文面が入るのも共通だが、
主題は、ここから始まる不安、暗い混沌の時代における生き方である。

前二篇に自身の生き方を示し、後二篇では読者に問いかけている。

(*) 短いページ数 (文庫本:平成発行の「新潮文庫」)
①「新郎」:13ページ、 ②「十二月八日」:15ページ、
③「律子と貞子」:10ページ、 ④「待つ」:3ページ

短編とはいえ、開戦時の2ヶ月間で四篇を一気に執筆、脱稿した。

短い単純、平易な物語なので、軽く読み流されがちだが、
大宰は戦中はもとより、戦後の世にまで思いを馳せている。

平和な世になることを願い、その新しい世の姿、人々の生き方を
心に描き、その本意を行間に込めたのである。

厳しさを増す思想・言論統制下、これを正面から表現したのでは
検閲で発禁になると恐れ、発表のために工夫したと察せられる。

大宰がどの程度意識したかは不明だが、結果的にはこの四篇は、
「太平洋戦争 開戦時四部作」 として成り立っている。

本項では、「開戦時四部作」の観点から各篇について次に記す。

(各篇については、個別に別記項目に詳記。本項との重複あり。)

 1.「開戦時四部作」執筆の背景

  (1)厳しい検閲 (思想・言論統制)

    ・日中戦争(S12/7)の長期化は太平洋戦争に繋がったが、この間、国家体制は戦争対応
     一辺倒で、国民に対しては常に官憲の眼が光り、思想・言論統制は厳しさを増していた。
     
     国民が自らの意見、意思を自由に表現、発表することは難しく、文学分野に対しても例外
     ではなく、例えば、徳田秋声の「縮図」は「都新聞」連載中に、内閣情報局から時局に
     不相応という圧力を受け、この年(S16)9月15日の80回をもって中断、未完となった。

     戦争協力、戦意高揚を目的とする、いわゆる国策小説以外の一般文学作品の発表には、
     作家、編集者は第一に「検閲」を心配しなければならなかった。

    ・本項の「四部作」にはすべて戦争協力の文面が入っているが、主題に直接関係するもの
     ではなく、むしろ不自然と感じられる部分もある。
     文面上は戦争協力を示しながら、本意は行間に込めるという検閲への工夫と察せられる。

  (2)太宰の立場

    太宰の作品の多くには、太宰の実人生が反映されている。
    その度合いは作品により濃淡があるが、執筆時の太宰の実生活上の立場を承知している
    ことは作品を読むうえで有意だろう。
    「四部作」執筆時、大宰には次のような特異な立場があり、各篇にはその影響が認められる。

   ①平穏な家庭生活
    
    井伏鱒二の世話で甲府在住の石原美知子と再婚(S14/1)した太宰は、甲府でプロ作家として
    創作に励み、間もなく(S14/9:30歳)、三鷹に引っ越した。
    執筆依頼は増え、家庭人としても平穏な日々で、昭和16年6月に長女(園子)が誕生した。
    長兄文治との関係(義絶状態)が気がかりではあったが、おそらく太宰の生涯において最も
    安定、平穏な時期だったといえる。

   ②生家(津島家)との関係
    
    津島家(長兄文治)との義絶関係は再婚(S14/1)後も変わっていないが、月額90円(一般家庭
    の生活費としては十分な額)の仕送りは続けられた。
    8月(S16)には母タネの病気見舞いで単身で生家を訪問できたが、これは、文治の留守中に
    無断で行われたものだった。事後に知った文治は、特に咎めはしなかったが、関係が修復された
    わけではなく、妻と長女園子(S16/6生)を文治、母タネら身内に会わせることができない義絶
    状態は続いていた。
  
   ③作家としての位置

    作家としては、再婚後の平穏な家庭生活のもと、懸命な執筆で新進、中堅として認められるように
    なり、妻美知子『回想の太宰治-旧稿』には、「15年春ごろには原稿依頼が増加して、著書も
    次々刊行され、昭和12、3年頃とは一変した状態になっていた。」とある。
    
    ちなみに、この春には短編集『皮膚と心』、『思ひ出』、『女の決闘』が刊行され、昭和16年に
    なってもこの勢いは変わらず、初の長編小説『新ハムレット』(S16/7)も刊行している。

   ④文学仲間との交遊関係

    荻窪時代の活発な同人活動を通じた文学仲間や師とした井伏鱒二の人脈、特に阿佐ヶ谷将棋会
    のメンバーとの交遊を積極的に行い、また三鷹の自宅を訪れる若い文学青年らとは師の立場で
    交流、出版関係者への対応など、多忙な日常だった。
    
    ちなみに、戦後の太宰の人生に重く関わった太田静子(『斜陽』題材の日記提供者)は、
    このころ自宅を訪れた多くの文学青年の中の一人で、初対面は9月(S16)だった。

   ⑤肺疾患で徴用不合格(徴用免除)、仲間は戦地へ。

    昭和16年11月、国民総動員法に基づく国民徴用令により多くの作家ら文人が徴用された。
    いわゆる白紙招集(召集令状は赤紙)で、11月17日に本郷区役所集合で身体検査を受け
    たが、太宰は不合格(徴用免除)となった。妻美知子『回想の太宰治疎開前後』よれば
    
聴診器を当てた軍医は、肺浸潤と診断し即座に免除と決めたという。
    
    阿佐ヶ谷将棋会では、井伏鱒二、小田嶽夫、中村地平が徴用となり、11月20日に会で送別会、
    翌11月21日に集合場所である大阪へ向かった。太宰は東京駅で見送った。
    (井伏らは、開戦の日(12/8)は南方へ航行中の輸送船に乗っており、香港沖で迎えた。)

    ちなみに、阿佐ヶ谷将棋会の送別会(11/20)での木山捷平と太宰との会話が木山の随想
    「太宰治」(S39/7)に、「きみ、軍医をだましたね」・・「うん」などと軽妙に書かれている。
    
    妻美知子は「助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持で
    あった。」というが、世間的に不名誉感は拭えず、太宰の心境はさらに複雑だったろう。

     (ご参考・・本項末尾に 「太宰の身辺と執筆、発表作など一覧:昭和16年(1941)~昭17(1942))


 2.各作品の注目点と太宰の本意

  (1)「新郎」(S17/1:<新潮>)・・完成原稿に加筆して出稿

      詳細は、別記項目「「新郎」-太平洋戦争開戦の日、急遽、原稿に加筆」を参照ください。

   ①作品の成り立ち

    ・本作品は太宰が自身を「私」として小説化しており、「私=太宰」と特定できる。

    ・私見で、小説「新郎」の原稿は、太平洋戦争開戦(S16.12.8)の前日には完成していたが、
     開戦のニュースを聞いて、急遽その原稿に加筆したと推察する。
    
     この加筆があったとしても、「自分は毎日を精一杯生きる」という作品の主題は変わらないが、
     加筆したと思しき部分の記述が強烈で、文学一筋に生きる信念や平和、平穏を願う気持、
     社会のひずみや現実を指摘した部分の印象は薄められた。

     開戦によって、大宰の生き方の一つの到達点である「馬車で銀座を練り歩きたい」の実現は
     戦争終結後のことにならざるを得ないので、作品の結びは「ああ、このごろ私は毎日、新郎の
     心で生きている。」と加筆、題名を「新郎」にしたと察せられる。

    ・大宰の本意はもともと行間に滲んでいたが、加筆によってその色合いは一層濃厚になった。

    ・その根拠と加筆箇所、題名などに関しては、別記項目(上記)に詳記した。
     例えば、文中に「私はこのごろ‥」「このごろ私は・・」の節があり、私見だが、
     後者は加筆箇所である。

   ②作品の内容(文面)
 
    ・書き出しの「一日一日を、たっぷり生きて行くより他はない。」が作品の主題で、私は、明日の
     ことを思い煩わず(註1)、きょう一日を真心をもって精一杯生きたい。家族にも世の中の人
     にも優しく接し、来客、来信には誠意を持って真摯に応対する。ごまかしや、きたない打算は
     やめる。「率直な行動には悔いは無い、あとは天意にお任せするばかりなのだ。」と書く。
   
    ・次いで、本作品の核心として「私信」(=随想:12月2日付「都新聞」掲載)の文章をそのまま
     再掲載して、太宰の”このごろの心情”を示し、赤心をもって無邪気に信じ「私は文学をやめ
     ません。私は信じて成功するのです。」という決意を読者に披瀝している。(註2)

    ・そして、このごろは私は、身だしなみは細かいところまで配意し、書斎には花を飾る。
     「ああ、日本は、佳い国だ。」、パンは無くても花は豊かだ。「この見事さを、日本よ、
     世界に誇れ!」とし、

    ・さらに「私はこのごろ、破れたドテラなんか着ていない。」、「どうしてだか、紋服を着て歩き
     たくて仕様がない。」 と続け、生家(津島家)の紋服を着た姿で馬車に乗り、銀座を練り
     歩きたい。「ああ、このごろ私は毎日、新郎(はなむこ)の心で生きている。」と結んでいる。

     (註1)この部分は、聖書「マタイ伝 6-34」から採っている。
     
     (註2)
「私信」の中に、「明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。」とあるが、
         「あの人」は「キリスト」である。

   ③太宰の思い、本意(行間)

     作品において、太宰は日中戦争下の日本と自分の境遇を受け入れて毎日を過ごしている。
     我慢していれば日本は成功する、大臣の言葉を信じよう、と家族に言い聞かせている。
     厳しい時勢を真摯に生き抜く姿勢が伝わるが、これだけが太宰の思い、真意だろうか?

    ・まず、開戦を知って(S16.12.8)、その事実を末尾に追記したのは理解できるが、「このごろ
     私は、毎朝必ず髭を剃る。」~「世界に誇れ!」は、あまりにも大袈裟というだけでなく、
     前後との関係の不自然さが目立つ。
    
     身だしなみ関連は、いつでも命を捧げる覚悟表明のようだが、執拗で大袈裟過ぎる表現で、
     続けて、”パンや酒は無くなっても花を世界に誇れ!”には太宰の本気度が疑われる。
    
     文面上は、まさに”欲しがりません勝つまでは!”で、戦争協力、戦意高揚だが、これは
     太宰流の皮肉たっぷりの道化表現で、”私の思いを察してくれ!”と叫んでいるように
     思えるが如何だろう。
     開戦に対する、太宰の失望、落胆あるいは自棄の表現と解したい。

    ・太宰は日中戦争が続く中で徴用令書(白紙)を受けて、戦争をより身近に感じるようになり、
     庶民の食卓は貧しい、があるところにはあるという社会の現実や、小学校教師の応召を
     書き、買い溜めはやめよう、 世俗にまみれず、大臣の言葉を信じ、将来を信じることに
     よって成功する、と赤心を強調する。が・・、
    
     ここでも、先行き不安だらけの現実や、社会の歪、体制への懸念を示し、大袈裟に道化的
     表現によって信じることを自らに言い聞かせている。単純な体制順応、追従とは読めない。

    ・そして、それが結末の部分ではっきりする。
    
     ここは、自分は生家から勘当の身、徴用は不合格の不甲斐なさ、作家としても道半ば、厳しい
     時節を覚悟も新たに一日一日を誠実に精一杯生きているが、先行き不安が増すこの頃を
     思うと一日も早く許されたい、晴れて生家(津島家)の紋服を着た姿で馬車に乗り、銀座を
     練り歩く、という願望で、太宰が「善蔵を思う」(S15)に書いた衣錦還郷の念の吐露だろう。

     さて、馬車に乗り、晴れやかに銀座を練り歩くことは、太宰個人の成功だけでは実現できない。
     平和でなければならない。太宰が心底欲したのは、戦争ではなく「平和」だったといえよう。
    
     文人徴用で井伏らは従軍のため外地へ出発、時勢は太宰の思いとは逆方向に動いている。
     そして「開戦」を知り、驚きとともに失望、落胆したが戦争には勝たねばならぬとの思いが強い。
    
     「花を世界に誇れ!」の部分にある異常なほどに昂った表現は、落胆を道化にするしか
     なかったと察せられる。

    ・作品の締めを「ああ、」と詠嘆調にして、”新郎(はなむこ)の心”とルビを付し、キリストの
     教えに従って生きること、つまりは文学を続けることをあらためて記し、強調したのも
     自分が求める方向への展開を願う気持ちを込めたものだろう。


  (2)「十二月八日」(S17/2:<婦人公論>)・・「新郎」出稿と同時に起稿

      詳細は、別記項目「「十二月八日」-太平洋戦争開戦の日 100年後に!」を参照ください。

   ①作品の成り立ち

    ・日米開戦(昭和16(1941)年12月8日)の日ないしその直後に「新郎」を出稿した太宰は、
     続いて本作品を起稿した。
     執筆期間は約2週間、世間は緒戦の真珠湾攻撃などの大戦果に沸いていたが、太宰は冷静
     な目をもって開戦の日を捉え、”嘘だけは書かない”で100年後に伝えたいとしている。
     
    ・その日の主婦の日記という太宰得意の“女性独白体”で、茶化しや道化の要素が濃いのが
     特徴的だが、これは時勢を意識した太宰の工夫だろう。

    ・登場人物名から、作中の“まずしい家庭”は太宰一家がモデルと特定できる。
     つまり、主人公の”私”(主婦)は太宰の妻で、自分の開戦の日の体験と感懐を日記に記す
     ことで市井の人々の開戦の受け止め方や市中の様子をリアルに後世に伝えようとするが、
     主人(太宰)については得体の知れない存在として開戦への反応をボカシている。
    
     このボカシこそがこの小説を読み解くポイントだろう。

   ②作品の内容(文面)

    ・主人は友人の伊馬さんと、紀元二千七百年を何と読むかといった他愛ないことを真面目に話し
     合うような日々だったが、12月8日の早朝、西太平洋において対米英開戦の臨時ニュースを
     聞いた。主人は「西太平洋はサンフランシスコか?」と馬鹿げたことを聞くような反応だった。

    ・主人は朝から忙しく原稿を一つ仕上げたようで、雑誌社に届けるため昼少しすぎに出かけた。

    ・ラジオは華々しい戦果を伝え、軍歌を流し続けているが、町の様子は少しも変っていない。

    ・一人で夕食後、生後6か月の園子をおんぶして銭湯へ行ったが、帰りは真っ暗だった。
     燈火管制のためで、初めて経験する暗さに途方に暮れたが、このとき、背後から調子はずれ
     の軍歌を歌いながら帰宅途中の主人が追いついてきた。
   
    ・「園子が難儀している」と言うと、主人は「お前たちは、信仰がないから、こんな夜道にも
     難儀するのだ。僕には信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」と言って、
     どんどん先に立って歩いた。 
     どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。

   ③太宰の思い、本意(行間)

     一読すると、太宰の妻が「日本の綺麗な兵隊さん・・」と呼びかける箇所が強烈で、時勢迎合、
     戦争協力作品の感があるが、これは、著者(太宰)が対米英開戦日という歴史の日を三つの
     視点で捉え、その状況における自身の思い、生き方を行間に潜ませる構成にしたからだろう。

     太宰の視点の一つは市井の現実、一つは一般国民の思い、もう一つは国家が国民に求めた
     戦時意識、姿勢である。これらを主婦(妻)の感懐(本音と建前)として日記に記した。

     以下、私見だが、太宰は一般国民としてこれらの現実を受け入れながら、自身の思い、
     生き方を次のようにこの作品に込めたのである。

     ・まず、この作品の最大のポイントは、結びの部分で、夜道に「園子が難儀していますよ。」
      に対し「僕には信仰があるから暗い夜道もなお白昼の如しだね。」という場面だろう。
      この場の言動には、確信に満ちた太宰の姿がある。

      園子は今、母の背中で「何も知らずに眠っている。」、その園子が難儀している・・、
      ”園子”を”平和”と読み替えられないだろうか。
      これから始まる”暗い夜道”をどのように歩くか、日本人の戦時の生き方を問うていると
      読める。

      太宰は「お前たちには信仰がない」が自分にはあるという。
      これは前作「新郎」を引き取っている。
      「新郎」では、聖書(マタイ伝6-34)を引いて「一日一日をたっぷり生きるほかない。
      明日のことを思い煩うな。」とし、私信の中で”文学をやめません”と明言したことに
      重ねたといえる。
      つまり、ここでいう”信仰”は、”戦時も文学を続けて成功する”という信念と解してよかろう。

      「新郎」は12月8日の臨時ニュースを聞いた直後に加筆、完成した作品で、本作の中に、
      雑誌社に原稿を届けるため外出したという記述があるが、「新郎」の原稿のことだろう。
      太宰は、開戦という特別な節目を迎えた日の状況を踏まえて、あらためて文学への決意を
      固め、いわば「新郎」の続編(後編)として「十二月八日」を執筆したと察する。

     ・次に、国の命運をかけた対米開戦という重い一日を主題とする小説にしては全体的に
      道化調でユーモラスでさえあることに注目したい。

      前月(S16/11)の文士徴用(太宰は不合格、徴用免除)で戦争を一層身近に感じた太宰の
      胸中は複雑で、開戦のニュースを聞いて不安や疑問はさらに増したはずだが、それを直截
      に表現することは憚られるので、妻の日記という形にして先の三つの視点を混在させ、
      道化の手法で太宰の胸中をはぐらかしている。

      大宰はまさに「どこまで正気なのか、呆れた主人」なのであって、ここに、戦争はして
      欲しくなかった、先行きは不安だらけだ、しかし自分には文学があるという太宰の
      本音と確信が示されるが、心底には時勢への無力感も広がっていただろう。

     ・「新郎」と「十二月八日」には、道化的表現のほか庭先に咲く山茶花の風情と幼子(園子)
      への親心、愛情を書いた共通点があり、ここに平穏、平和の尊さを象徴させたと読める。

     時勢は、満州事変(S6)から日中戦争(S12)、そしてついには超大国米英との開戦で、
     本音ではこの時勢に不安を覚え、国の在り方、方向に疑問を抱いた国民は多かっただろう。
     しかし、その大多数は戦争賛美、迎合とか、体制批判、反戦といった政治思想や主義主張
     とは関係なく、逃げ場のない受け入れる他ない現実を前に戦勝を第一に願ったのだろう。

     太宰もそうした国民の一人で、開戦の日に強い戸惑いを覚えながら、戦勝を願い、自分は
     文学に生きる、小説を書き続けるという決意を行間に込めたといえよう。


  (3)「律子と貞子」(S17/2:<若草>)・・「十二月八日」脱稿、直ちに起稿

      詳細は、別記項目「「律子と貞子」-開戦の時、プロポーズは姉に?妹に?」を参照ください。

   ①作品の成り立ち

    ・前作「十二月八日」は12月20日(S16)頃までに脱稿したと推定され、直ちに本作を
     起稿した。
     執筆依頼の経緯は不明だが、山内祥史は「12月下旬に執筆脱稿されたのだろう。」とする。

    ・本作に登場する「私」を「誰」と特定できる情報はないが、「私」の気持に続いて「読者は
     如何に思うや。」と結んだ流れから、「私」は著者、つまり大宰とするのが自然である。

      なお、大宰は本作品執筆中に、知り合って間もない太田静子と二人だけで会っている。
      憶測(私見)にすぎないが、「律子」と「貞子」のモデルについて別記項目(上記)に
      詳記した。本作品は戦後のベストセラー「斜陽」に繋がったと考えられないだろうか・・。

   ②作品の内容(文面)

    ・三浦君は、太平洋戦争開戦のすぐ後に何年かぶりで下吉田の姉妹の旅館を1泊で訪ねた。
     姉妹は再会を喜んだ。一日目、特に妹の貞子は三浦君の傍を離れず自分の思いを熱心に
     話すもてなしだった。一方、姉の律子は旅館の泊り客のために女中と一緒になって応対する
     に忙しく、三浦君の元へはほとんど来られず、三浦君は寂しい思いをした。

     翌日、三浦君が帰る時、姉妹は見送りのため途中の停留所までバスに同乗した。
     ただ、世間体に配慮した姉の提案で、バスではお互いに他人の振りをすることにした。
     姉はその通り行動し、バスを降りても素知らぬ風で別れたが、妹はバスの中でも三浦君の方
     をチラチラ見ており、降りるとバスを追って走り「兄ちゃん!」と叫んで手を挙げた。

    ・三浦君は姉妹のどちらかと結婚したいと思っており、どちらがいいかと「私」に意見を求めた。
     「私」なら迷わず、確定的だが、具体的に指図することは遠慮して、三浦君に聖書の一か所
     (ルカ伝十章三八以下)を読ませた。

    ・10日ほど経って三浦君から「姉の律子と結婚することに決めた。」という手紙が来た。
     「私」は、義憤に似たものを感じた。読者は如何に思うや。

   ③太宰の思い、本意(行間)

    三浦君の結婚相手選びを主題とする比較的軽い読み物かと思えるが、聖書の引用の後、
    「読者は如何に思うや」の問いかけで結んでいるのはそれだけに止まらない意味を感じる。

    結論から示せば、発表誌「若草」の主な読者である若い女性たちに「今の生き方のままで
    いいんですか?」と問いかけた作品だろう。
    推測も交えた私見になるが、次に記す。

     ・太平洋戦争開戦と同時に大宰が執筆したのは「新郎」、「十二月八日」で、そこに開戦への
      不安や平穏、平和を望む胸中をにじませながら自身の生き方を明示した。
      同じ時期、「若草」に執筆機会を得たので、大宰はその流れで読者である若い女性たちに
      生き方を問いかけた。

     ・「律子」は当時の日本女性の模範的生き方とされるしっかり者「良妻賢母」型とすれば、
      「貞子」は既存の規範に縛られず、自分の思い、意思に従って行動するいわば「自由行動」
      型といえよう。

     ・「私」は「ルカ伝十章三八以下」を三浦君に示して貞子を選ぶよう暗示したというが、
      マルタ、マリアの言動は必ずしも律子、貞子に合致しない。もともと恋愛や結婚に関する
      教えではなく、最も大切なことは教えをよく聞くこと、つまり信仰を深めること、自分を
      高めることと説いているのである。
      「貞子」は、聖書の記述を通して太宰が好ましい一つの女性像として描いた姿だろう。
    
      結婚に関しては、男性に選ばれるのを待つのではなく、自らの気持、意思をしっかり持って、
      それを素直に相手に伝えるような生き方を推したということだろう。
     
    日本は日中戦争の長期化で戦時色が強まり、新体制による個人生活への締め付けは強化され、
    特に表現の自由は極度に制限され、統制、検閲強化などで心の自由を奪っていった。

    大宰は、太平洋戦争突入でこの流れに拍車がかかることを懸念し、戦争完遂をスローガンに
    男性社会に翻弄され続ける女性、特に若い女性に、あえて問いかけたのである。

    既存の価値観、社会規範、常識に従っていればいいのか? 自分を高め、自らの心を素直に
    表現する生き方はどうだろう?・・などを聖書の引用や検閲に配意した記述を組み込むことで
    示唆し、併せて体制、時勢への抵抗をにじませ、国の進む道に警鐘を鳴らした・・と解したい。


  (4)「待つ」(S17/6:創作集『女性』に収載)・・「京大新聞」不掲載で短編集に収録

      詳細は、別記項目「「待つ」-開戦の時、「私」は誰? 何を待つ?」を参照ください。

   ①作品の成り立ち

    前述のように、大宰は太平洋戦争開戦を知って(S16.12.8)、急遽、「新郎」の原稿に
    加筆、出稿し、直ちに「十二月八日」を起稿、12月20日頃までに脱稿、続いて「律子と
    貞子」を起稿、12月下旬に脱稿したと察せられる。

    「待つ」の執筆はそれに続き1月(S17)に原稿用紙5枚(新潮文庫で約3ページ)を
    脱稿したが、初出は大宰の創作集「女性」(S17/6:博文館)に収録だった。
    この「待つ」本文の末尾には「(十七年一月)」と記されている。

    いわば掌編小説だが、執筆依頼から初出まで約半年を経ている。
    この経緯には当時の検閲や出版関係者、太宰らの思いが複雑に絡んでおり、時代背景や
    作品を理解するうえで有意な要素が窺える。
    次はその概略なので、詳細は別記項目(上記)を参照ください。

      
・大宰への執筆依頼は「京都帝国大学新聞」(以下「京大新聞」)からで、原稿を送付したが
      掲載はされなかった。
      
      戦後、その顛末を同紙の編集員で、太宰を訪ねて原稿を依頼した伊達得夫は自著で
      「掲載して発行したが検閲で発禁となった」としているが、太宰の妻美知子は自著で伊達に
      聞いたこととして「時局にふさわしくないので原稿は返された」としている。
      
      当局による検閲で発禁になったのか、京大編集部の自主的判断で掲載を中止したのか
      不詳だが、太宰のもとへ2月(S17)中旬に不掲載の連絡があった。

     ・不掲載との知らせを受けた太宰の対応は素早かった。
      このとき太宰の創作集「女性」の発行作業を進めていた博文館宛に、2月20日(S17)付
      の書簡で、「待つ」の原稿を送ったので、この創作集に収録するよう依頼したのである。

     ・「待つ」が収録された創作集「女性」は、昭和17年6月30日付で発行され、これが
      「待つ」の初出となった。

     ・こうして発行された創作集「女性」だが、検閲によるトラブルがあったという資料はない。
      京大新聞に送った原稿と発表された原稿(博文館)は異なるのか?
      大宰は博文館宛に「京大へ送ったコピイ」とわざわざ説明していること、伊達は「今は、
      太宰治全集で読める」と書きながら内容には触れていないこと、から同一とみてよかろう。

     ・ただ、太宰は真杉静枝の本の跋を読んで「待つ」という題名に「時局不相応」の不安を感じ、
      博文館宛に、題名を「青春」に変更するようさらに依頼(S17.3.29付書簡)したが、改題は
      為されなかった、というエピソードがある。
      これは太宰が作品に込めた意図、本意に関する貴重なヒントなのではないだろうか。

   ②作品の内容(文面)
     
     大戦争が始まってから、「私」は毎日、省線の小さな駅のベンチに座って誰かを待っています。
     それまで「私」は、家て母と二人のんびり暮らしていましたが、それは悪いことのような
     気がして落ち着いていられなくなりました。
     「私」もお役に立ちたい気持ちで、外へ出たところで行き場はなく、毎日こうしています。

     お役に立ちたいというのは嘘で、胸の中では不埒な計画がちらちらしているような気もする。
     一体、「私」は誰を待っているのだろう‥人間ではないかもしれない。
     もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。

     「私」は一心に待っている。そして毎日むなしく家へ帰る二十歳の娘を忘れないでください。
     駅の名前は教えません。それでも、あなたは、いつか私を見掛ける。
   
   ③太宰の思い、本意(行間)

    ③-1 「私」は誰?

    作中の「私」は大宰に重ねるのが一般的だが、私見では「平和」と読む方がしっくりする。
    大宰は女性独白体でひたすら「待つ」ことを語るが、最終場面で「私は二十歳の娘」と明示し、
    その存在を強調、印象付けて最後に「何処の駅であろうが、あなたはいつか私を見掛ける。」
    と締めている。
    
    「あなたは見掛ける」は読者への語り口だが、この場合、読者に限らず駅のベンチの前を行き
    交う人々など みんながいつか、その時が来れば「私」の正体を認識すると読むべきだろう。
    
    その「私」の正体は、いわば「平和の女神」である。
    「平和を求める心」と言い換えてもよかろう。

    「見掛けられる私」は、同時に「あなた自身の姿」であると大宰は言いたかったのだろう。

    ③-2 「何」を待つ?

     ・「私」(=平和の女神)は大戦争が始まったことで居る場所を失った。
      始まるまでは、ともあれ静かにひっそり過ごしていたが、それは適わず、外へ出るしかなく
      なった。といっても、行き場は駅のベンチしかなく、そこに行き交う人々の動き、雰囲気は
      とても恐ろしい。
    
      「私」は、「私」が違和感なく溶け込める時代、新しい世の到来を一心に待つしかない。

     ・つまり、大戦争が始まらなければそれなりにしていたが、大戦争が始まると次の時代を
      待たざるを得なくなった。先ずは、大戦争が終わることを待つしかない。
     
      そして 戦後の新しい世にはどんな姿を望むか、それは「もっとなごやかな、ぱっと明るい、
      素晴らしいもの。」
と思い惑っている。

     ・「私」が望む世の姿は思い惑うところで終わっているが、大宰の胸中は、太宰が博文館に
       送った書簡から次のように察せられよう。

       太宰は「待つ」を創作集「女性」の「最後の締めくくりに適した作品」と書いている。
       「女性」の最初に配置した作品は開戦の日が主題の「十二月八日」なので、戦後の世の
       新しい姿を主題とする「待つ」を最後に配すれば創作集の締めに相応しいと解釈できる。

       大宰は博文館に題名を「待つ」に代えて「青春」とするよう頼んだが、これは若者の
       立場から青春を謳歌できる世を待ち望むという意味に解釈できるだろう。

       「四部作」中の「律子と貞子」中の「貞子」の姿に通じるところがある。
       既成の価値観、社会規範の枠にとらわれず、自らを高め、自分の思い、意思を素直に
       自由に表現、表明できる社会の到来を望んでいたに違いない。

          (この作品の題名は「待つ」でなければならない。博文館は太宰の依頼にもかかわらず
           変更せずにそのまま発行した。出版部石光葆の英断に大宰は救われたといえる。)

 3.まとめ(私見)・・「開戦時四部作」

    昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦は日本国中に衝撃が走った。
    国民は、国の将来、各人の将来を案じ各様の反応を示したが、太宰は、前述の通り、
    作家として直ちに短編小説四篇の発表をもって自らの思い、姿勢を吐露、披瀝した。

    第一作「新郎」で、大戦争は始まったが自分は文学を目指すという生き方を明示した。

    第二作「十二月八日」で、100年後のための記録として開戦当日の街の様子を揶揄気味に
    描写しながら、自分は確固たる信念をもっているので迷いなく進めると自信を示した。

    第三作「律子と貞子」では、特に、若い女性の生き方について、大戦争が始まったが、既成の
    男性社会の価値観、社会規範の枠内に止まっていていいのかと問いかけた。

    第四作「待つ」では、平和を待ちながら、いつか来る新時代、新しい世の姿を問いかけた。

    四篇とも、作中に戦意高揚に繋がる文面が含まれ、戦争協力作品と受け止める見方がある。
    緒戦の大戦果に沸く世相にあってそのように受け取られた可能性はあり、そうした危うさがある
    作品だが、冷静に読めば太宰の本意は行間に込められていることが分かる。

    開戦に直面し、厳しい検閲を意識しつつ作家としての矜持を保ち、いつかは来る戦後の世の姿
    にまで思いを馳せて自らの生き方を示し、読者に問いかけたこの四篇は、個別の作品としてで
    なく、太宰の「太平洋戦争 開戦時四部作」として捉えるべきだろう。

    短編、平易、それに戦争協力要素が混じるので、現状は個々の作品として軽く読み流され、
    軽く扱われているように思うが、「四部作」として再読、吟味すべき四篇と考える。


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別記 「太宰治(人生と作品)」

別記 「太宰治 : 作品一覧」 


(ご参考)太宰の身辺と執筆、発表作など一覧 (昭和16年(1941)~昭和17年(1942)

 時代背景・太宰の身辺など 主な執筆・発表作品など

昭和16年

(1941)
 

S12/7~日中戦争続く(いわゆる泥沼化)

 /4 日ソ中立条約締結
 /4 日米交渉開始
 /6 独ソ戦開始
 /6 長女園子誕生
 
 
/8 米国、対日石油禁輸
 /8 義絶中も、母見舞いで生家訪問
 /9 太田静子来訪=初対面-S22「斜陽」

 /9 徳田秋声「縮図」、新聞連載中断
 /10 東条内閣成立
 /11 文士徴用、井伏ら南方へ1年間
 (太宰は肺疾患のため徴用不合格。
  文学活動継続

 /12.8 アジア・太平洋戦争開始
 (日本軍、マレー半島・ハワイ攻撃)


S15/12-S16/6 「ろまん燈籠」<婦人画報>6回連載
 /1 「東京八景」<文學界>発表
 /1 「みみずく通信」<知性>発表
 /1 「佐渡」<公論>発表
 /1 「清貧譚」<新潮>発表
 /2 「服装に就いて」<文藝春秋>発表

 /5 短編集『東京八景』(実業之日本社)刊行
 /6 「令嬢アユ」<新如苑>発表
 /6 「千代女」<改造>発表
 /7 初の長編『新ハムレット』(文藝春秋社)刊行
 
 /11 「風の便り」<文學界>発表
 /11 「秋」<文藝>(「風の便り」の完結部)発表
 /11 「旅信」<新潮>(「風の便り」の中間部)発表
 /12 「誰」<知性>発表(脱稿:S16/10中旬)
 /12 .2 「私信」<都新聞>(文藝「大波小波」欄掲載)


昭和17年

(1942)

 
 /2 阿佐ヶ谷会将棋会御岳遠足参加
   色紙に寄せ書き、戦地の井伏らへ

 /2 日本軍、シンガポール占領

 /5 日本文学報国会結成-戦争協力

 /6 日本軍ミッドウェイ海戦敗北
 /8 米軍ガダルカナル上陸

 /9~「横浜事件」-思想・言論の弾圧
  (強力検閲、出版の統制・整理続く)

 /10 母重態、妻子を連れて帰郷
    〈妻子は 初訪問)

 /11 第1回大東亜文学者大会開催
 /11 井伏、徴用解除で親密交遊再開
 /12 母逝去で単身帰郷

 
 /1 「恥」<婦人画報>発表脱稿:(S16/11上旬)
 /1 「新郎」<新潮>発表(脱稿:開戦日(12/8)頃)
 /1 「待つ」脱稿し<京大新聞>に送稿も時局不相応で
    掲載なく、/6 短編集『女性』(博文館)に収載発表
 /2 「十二月八日」<婦人公論>発表(脱稿:12/20頃)
 /2 「律子と貞子」<若草>発表(脱稿:S16/12下旬)
 
 /4 短編集『風の便り』(利根書房)刊行
 /5 「水仙」<改造>発表(脱稿:4月上旬頃)
 /5 短編集『老ハイデルベルヒ』(竹村書房)刊行
 /6 長編『正義と微笑』(錦城出版社)刊行(脱稿:/3)
 /6 短編集『女性』(博文館)刊行・・「待つ」初出。
 /7 「小さいアルバム」<新潮>発表(脱稿:6月上旬頃)

 /10 「花火」<文藝>発表、直後に当局の命令で全文削除
 /10 「帰去来」脱稿(帰郷が題材:初出はS18/6)
 /11 「黄村先生言行録」「故郷」「禁酒の心」執筆・脱稿

(執筆・発表状況の主な資料は、山内祥史の「太宰治の年譜」および「全集-解題」(筑摩書房刊))
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     (本項(太宰治の「太平洋戦争 開戦時四部作」ー新郎・十二月八日・律子と貞子・待つ) R5/11UP)