== 井伏鱒二 荻窪風土記 阿佐ヶ谷文士 ==

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_____まえがき_____


私も荻窪の住人です

このページの作者、つまり私は、昭和42年(1967)に両親とともにこの荻窪の地に
引越してきました。その後転勤でこの地を離れた時期もありますが、
また戻ってきて、この地とは35年余のご縁となっています。

そして昨年(平成13年)秋に、41年に及ぶサラリーマン生活を卒業しました。
まだ午後はパートの仕事をしているので多少の拘束は受けていますが、
精神的・時間的開放感は以前とは比べものにならないほど絶大です。

これまで毎日の通勤時には全く気付かなかった足元の草花や樹木、風物が目に
入るようになりましたが、同時にその名前を知らないこと、地域の成り立ちや状況に
全く疎いことに強いショックを感じました。

そんな折に手にした「荻窪風土記」を読んでその舞台を歩いてみたくなり、
・・・昨今流行のウォーキング健康法を兼ねて・・・
図書館にも足を運んで作成したのがこのページです。

荻窪は昭和に入ると農村から都市へと急激にその姿を変えました。
区画整理や道路等いわゆるインフラ整備が進んだ住みやすい都会地として
発展しましたが、反面多くの自然環境や文化を失いました。
現在ではゴミ処理施設や自動車の排ガスによる健康被害が心配されています。

飛躍が過ぎるかもしれませんが、地球規模で進む環境破壊の縮図とも思い、
21世紀の人類は大丈夫かなと心配しながら作成しています。

(2002(H14).8.8 : 荒井 大樹)
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このホームページ作りを進めるうち、昭和がどんどん遠くなっていることに驚きました。
そして、昭和に生き、昭和を書き、昭和を語っている文士たち、
特に地元の”阿佐ヶ谷文士”の面々にはこれまでにない親近感を覚えてきました。

昭和初期、“阿佐ヶ谷将棋会” に集まったのは井伏鱒二、青柳瑞穂、田畑修一郎、
小田嶽夫、亀井勝一郎、木山捷平、古谷綱武、外村繁、太宰治、中村地平、上林暁、・・・

この阿佐ヶ谷将棋会は、戦後になって飲み会専門の“阿佐ヶ谷会”に発展するのですが
この頃はみんなまだ若く、<文学青年窶れ>をしながら早く世に出たいと懸命でした。
時勢は、左翼への弾圧強化・ファッシズム化・戦争へと激しく動く中、メンバーの多くは
政治思想や権力とは距離をおいた立場で、売れない市井の生活を書き、貧乏でした。

興味深いのは、各人に 「地方出身者である、長男ではない、
実家は相当に裕福である、父は早世、」 という共通項があることです。

もちろん全員がすべてに当てはまるわけではありませんが、東京での窮乏生活は、
当人たちの自立心とともに、一寸乱暴な私生活振りが一因だったとも云えそうです。
これが昭和文学史に残る大きな足跡に繋がったところが文士の文士たる所以でしょうか。

「荻窪風土記」をはじめ井伏ら阿佐ヶ谷文士の作品を読み、昭和の歴史をひも解きながら
昭和がどのように動き、井伏や周囲の人々がどのように生きたか、
荻窪界隈の自然や街はどのように変ったかを辿り、去り行く昭和を偲びました。

(目下、“阿佐ヶ谷将棋会” を主題にしたPart2を思案中。今月中にはUP開始予定です) 

2004年5月
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昨年(H15・2003)暮に「荻窪風土記の世界を歩く」が一段落しました。
その後、親近感を深めていた阿佐ヶ谷将棋会メンバーの作品や資料を読みながら
Part2の作成を考えておりましたが、ようやくUP開始となりました。

2004.05.30
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今般表題を  「井伏鱒二と 荻窪風土記と 阿佐ヶ谷文士」 に改めました。

2006年4月
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今般、「Part2 阿佐ヶ谷将棋会の文士たち」の第2期(成長期)までを終わりました。
これを機会に、構成を”文士単位”に改め、表題も「井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士」に
変更しました。あわせて目次、小項目の標題などの一部に手入れを行いました。

2007.05.10
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今年は、”太宰治生誕100年”ということで、太宰に因んだいろいろな企画が目に付きます。
6/19の桜桃忌には、 三鷹の禅林寺は例年になく多くの人で賑わうことでしょう。

実は、私の義母は6/28に100歳を迎えます。足は衰えましたが、頭脳明晰、元気です。
太宰のページに「太宰治 作品一覧」を加えて、2009年の私の記念にしました。

さて、今般、”阿佐ヶ谷将棋会”について、発足からの歩みを1ページにまとめました。
それにあわせて、目次や会員の全ページを見直し、修正・加筆などを行いました。
いくらか分かりやすい構成にしたつもりです。

表題も「井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士の人生模様」に変更し、「Part 1」は「荻窪風土記」に、
「Part 2」は「将棋会を介した文士たちの人生模様」に焦点が当たるようにしました。
まだまだ作成途上、ノンビリ続けていくつもりです。

2009.06.13
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このホームページを作り始めてから10年目に入りました。
量的拡大が進んでいますが、内容の整理が伴っていないことを反省し、
今般 とりあえず全体の構成を三部に改めました。
表題を「井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷文士」に戻し、

第一部  井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界
第二部  井伏鱒二と「阿佐ヶ谷会」とその時代

第三部  井伏鱒二と「阿佐ヶ谷文士」・・人生いろいろ

として、トップページ(総目次)を大幅に変更しています。

阿佐ヶ谷文士たちの生き方に魅せられ 作品を読み進めています。
まだまだ量的拡大は止まりそうもありません。
内容整理にも留意しながら作成を続けます。

2011.09.05
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先月、第三部の標題を「「阿佐ヶ谷文士」・・・それぞれの人生」に改めました。
そして今般、第3期(盛会期)を仕上げました。第2期(成長期)を終ってから
5年余りを要しました。よくも飽きずに続けられると我ながら感心しています。

内容はともかく、ボリュームなら一流かと・・?

その時代に、そこに生きる宿命を負って生れ、時勢に翻弄される庶民の姿、生き方が
阿佐ヶ谷文士に共通の主題であり、作品の魅力と思っています。

阿佐ヶ谷将棋会は、戦争末期から敗戦、混乱のさ中、休眠期になりますが、
メンバーの時勢への対応はまさに各人各様、「それぞれ」です。
引き続き作品を読み、資料を捜しながらの作成になります。
結果として、量的拡大優先になるような・・。

2012.07.18
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ようやく「第4期 休眠期」のUP開始にこぎつけました。ここまで時間がかかったのは、
この間に「檀一雄の年譜 -昭和15年-」のことに拘ったためです。
「浅見淵」の項に記しましたが、事実ではないことがはっきり判っているにもかかわらず
専門家とか権威ある方々がそれを正そうとしない姿勢があることに疑問を感じました。

今回、戦前・戦中・戦後の昭和史を紐解いて、何か似たような雰囲気を感じ、
今はどうなんだろう・・? 専門家とか、権威者とか、まして権力者とかを信じて
いいんだろうか・・などと自分の頼りなさを嘆いています。

ともあれ、これから、「第4期 休眠期」の各人の生き方、戦後の立ち直り方を辿ります。
やはり、量的拡大優先になりそうです。後でゆっくり質を考えます。その時間ありや?

そういえば、75年前の今日(1938(S13).03.03) 「第1回 阿佐ヶ谷将棋会」 を思う。

2013(H25).03.03
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今年は桜の開花が早かった・・平年よりも3月の気温が高かったことによるとのこと。
2月が寒かっただけに意外な気もした。早すぎて3月中に散ってしまうのではと
心配したが、東京は気温が下がって花は長持ち、末になっても見頃が続いている。

「勧酒」(于武陵)

勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離

を思い浮かべ、「特集編」作成を思い立った。

すでに井伏の項で触れているので資料は手元にあり、「サヨナラだけが人生だ」
表題で独立させた。案外よくまとまったと納得している。

2013.03.31(日)
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阿佐ヶ谷将棋会「第4期 休眠期」の制作を始め、まず、7月に井伏鱒二を完結し、
続いて太宰治に移りました。戦中、戦後、そして玉川上水心中と、あまりに激しい
人生の流れに驚きながら、終戦までと、特集編「惜別」を10月にUPしました。
戦後については、「なぜ 自殺したのか」 が気になり、今般、先行してUPしました。

小山初代、田部シメ子、津島美知子、太田静子、山崎富栄、
太宰が深く関わった女性たちの人生に思いを致しております。

2013(H25).12.15(日)
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12月に「なぜ 自殺したのか」をUPした後、青森県近代文学館編集の「資料集 第二輯」が
あることを知りました。「文庫手帖(S22とS23)」に書いた太宰のメモで、特に「昭和23年」の
内容には驚きました。この資料の存在はもっと一般に広く知られるべきと思います。

過去の太宰研究の主要文献は、「文庫手帖」の存在が明かされていなかったため、
この太宰メモには触れていません。特に井伏に関する部分は衝撃的です。
最重要資料の一つと思うので、その一部(「井伏鱒二ヤメロといふ」に始まるメモほか)
を引用し、この項の一部を改訂しました。

2014(H26).02.11(建国記念の日)
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1年以上にわたって、太宰の自殺(心中)の理由を、特に、唐突な実行だったことを中心に考えた。
そこで多くの資料・文献を当った結果、注目すべき事実として「御坂峠計画の始動」があった。

そして、理由の結論だけを簡潔に示せば、次の三要因が重なったこと(三重要因)に行き着いた。

この三要因の中の1つでも無ければ、太宰はそのまま “生きる道” を進んでいたと考える。

創作の行き詰まり   山崎富栄の死の覚悟   「御坂峠計画」の始動

これを先般、太宰治の自殺(玉川上水心中):理由と遺書と執筆メモ にUPした。

(表題は、後に 「太宰治の自殺(玉川上水心中)の核心」 に変更)


そして今般、絶筆「如是我聞」の特異性が気になり、志賀直哉の発言掲載誌を確認した。
「文学行動」(S23/1) ・ 「社会」(S23/4) ・ 「文芸」(S23/6) の三誌である。

「日本の古本屋」で検索し、3軒の古書店でゲット  三誌が手元に揃った。
全国広しといえど、この3冊をセットで閲覧できる図書館があるかどうか・・
3冊揃いは、いささかの自慢、 「日本の古本屋」さんに感謝。

志賀発言も大人げないが、太宰の先輩らへの罵詈雑言は、やはり異常である。
執筆の背景、意図を探ると、文学的理由だけではなく、経済事情が窺い知れる。
「如是我聞」の著者は、作家「太宰治」ではなく、人間「津島修治」とすべきだろう。

太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾” をUPした。

H27(2015).03.01(日)
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今般、「上林暁の人生と文学」を完結し、UPした。

作家生活の大部分は妻の病気と自身の病気との戦いの中にあったが、
自ら拓いた私小説の道一筋に生き抜いた作家魂には驚嘆するしかない。

・・が、その陰で、38歳の若さで逝った妻の人生は何とも痛ましい。
さらに、上林文学は妹睦子の支えなしには存在し得なかったが、その睦子の
人生もまた、この作家魂が招いた運命的な流れであることに思いを致したい。

太宰治の激動とは違った意味での激動の人生だが、そこに何人かの女性が
深く関わっていることは共通である。太宰の場合にはスキャンダラスな面を
否定できないが、上林の場合にはストイックな静かさが漂い、
それが上林作品の本質であるようにも感じた次第である。

2016.01.07(木)
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本年(H28)4月、Win10機種を導入した。諸般の事情を熟慮の結果、VistaからWin10の
レンタル機に変えた。高級機種ではないが、分相応、3年間保てば上等と割り切った。
以来4か月余、操作未熟に起因するトラブルやミスに戸惑いながらようやく慣れてきた。

この間、niftyの“@homepage サービス”終了に伴う対応に難儀し、ジャストシステム社
(ホームページビルダー)のアドバイスのおかげで、何とか我がページを維持できた。

そして、今般 「石山太柏=荻窪ゆかりの日本画家」 のアップにこぎ着けた。

「荻窪風土記」を再読中、井伏が訪問したという天沼の石山太柏画伯のことが気に
なり、ネット検索で、太柏作品の画像を東京国立近代美術館サイトに発見した。
その中の「夕暗の天沼弁天」と「近郊二景(井草野・荻窪)」には惹きつけられた。
芸術作品として高い評価があると思うが、それだけでなく、
100年前の荻窪近郊の原風景として郷土史の観点からも貴重な資料だろう。

H28(2016).09.02(金)
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=「荻窪風土記」は “鎮魂の書” と見つけた=

「荻窪風土記」を再読するうち・・、この書は井伏による旧友らへの
“鎮魂の書” ではないかとの思いに至った。

単行本にする際、「風土記」と題したことで紛らわしくなったように思うが、
その本質はあくまでも登場人物に対する井伏の想いであり、その多くは
かつて阿佐ヶ谷(将棋)会などに集った文学仲間や地元の飲み仲間である。

井伏83歳の執筆で、この時すでに大半の仲間は鬼籍の人になっている。
井伏よりも若い仲間たちが、一人、また一人と旅立っていたのである。

往時に思いを馳せるとき、井伏の胸に浮かんだのは
こうした仲間たちの若い笑顔だろう。

「あの日をありがとう 安らかに休んでおくれ・・」 の思いが
胸にこみ上げたのではないだろうか。

郷愁・感傷に流れることなく、文学者の矜持をもって筆を進めて “鎮魂の書”
「豊多摩郡井荻村 17篇」
(=荻窪風土記)が仕上がったと思えてならない。


=太宰治は、荻窪で、井伏の支えで “文士活動” に猛進した=

「荻窪風土記」に登場する人物名は400名に上るが、その中で最も多く載る
名前(ページ数)は断然に「太宰治」で、井伏・太宰の親密の濃さが窺える。

井伏と太宰は師弟関係にあったと知る人は多いが、太宰は荻窪に住み、
作家として身を立てるため “文士活動” に猛進したことを知る人は少ない。

杉並区が取り壊しを決めた太宰の旧居「碧雲荘」(井伏宅へ徒歩10分)は、
大分県由布院温泉に移築され、この4月(H29)には完成の運びと聞くが、
この機会に、「太宰治の荻窪時代」の概略を整理し「略年譜」の形まとめた。

太宰治の荻窪時代 = 波乱の「文士時代」 (井伏鱒二の支え)

既述の「太宰治の人生と文学」から、昭和8年〜昭和13年を抜き出して
整理したのだが、井伏の支えがなければ、後の作家「太宰治」とその
作品は存在し得なかっただろう関係だったことが鮮明に見て取れる。
昭和文学史における重要な事実として記憶し、記録に残したいと思う。

H29(2017).03.20 (春分の日)
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当ホームページの内容は、私が収集した諸情報を基本に構成していますが、
掲載した情報の信頼性を保証するものではありません。念のため、申し添えます。

(制作者 : 荒井 大樹)

連絡先 (E-mail)  
arai-ti●mbr.nifty.com

(●の部分は、●に代えて、
j@ と入力してください)


多くの編に共通する参考図書(順不同)

(ア)『荻窪の今昔と商店街之変遷』 矢嶋又次著(昭和51年)
(イ)『杉並区史探訪』  森 泰樹著(昭和52年)
(ウ)『杉並歴史探訪』  森 泰樹著(昭和52年)
(エ)『杉並風土記 (上・中・下)』  森 泰樹著(昭和52・62年・平成元年)
(オ)「東京沿線物語 中央線(東京新聞連載記事:昭和38-39年)」  金子治司

(カ)『杉並区史 下巻』  杉並区役所(昭和57年)
(キ)『天沼・杉五物がたり』  
杉並第五小学校創立五十周年記念事業協賛会(昭和51年) 
(ク)『新天沼・杉五物がたり』  
杉並第五小学校創立七十周年記念事業実行委員会(平成8年)
(ケ)『杉並新聞』(図書館保存)  西東京新聞社(杉並新聞社)
(コ)『阿佐ヶ谷文士村』  村上 護著(平成5年)

(サ)『阿佐ヶ谷界隈の文士展』 杉並区立郷土博物館(平成1年)
(シ)『井伏鱒二と”荻窪風土記”の世界』 杉並区立郷土博物館(平成10年)
(ス)『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』 杉並区立郷土博物館(平成12年)
(セ)『阿佐ヶ谷文士村』 杉並区立中央図書館(平成5年)

(ソ)『日本近代文学大事典』 講談社(昭和53年)
(タ)『増補改訂 新潮日本文学辞典』 新潮社(昭和63年)

(チ)『昭和史の事典』 佐々木隆爾編(平成7年)
(ツ)『日本歴史大辞典』  河出書房新社(昭和60年)
(テ)『岩波日本史辞典』 岩波書店(平成11年)
(ト)『新編日本史辞典』 東京創元社(平成2年)

  (ナ)『井伏鱒二全集 別巻2』 筑摩書房(平成12年)
  
本HPでは、上記図書からの引用、要約をさせていただいています。
各編に特に関わりの深い図書は各編にも記載しました。(2004.3.15)

 

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「荻窪風土記」 年表 井伏鱒二 : 略年譜 昭和史(元年〜25年)略年表