井伏鱒二・太宰治・・・、阿佐ヶ谷文士の名言、名句、文学碑


「阿佐ヶ谷将棋会」の面々が残した作品や言葉などから、よく知られている文言、
あるいは、それぞれの人生や考え方、人柄がにじむような文言を集めてみた。
文学碑になっている文言はできるだけ載せたが、割愛した文言(文学碑)もある。
(文学碑は、ネット情報と「全国文学碑総覧」(2006:日外アソシエーツ)を参照)


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 井伏鱒二

  * 「サヨナラだけが人生だ」 
(S10:于武陵「勧酒」 :最後の「人生足別離」の訳)

  * 「はなにあらしのたとへもあるぞ さよならだけが人生だ」 (同上 :後半部分の訳)

      ・
「勧酒」の後半部の訳を書いた色紙が多い。郷里の福山市加茂町には、全文を刻んだ
文学碑がある。



  * 「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも
    不正義の平和の方がいい。」 
(小説「黒い雨」(S41))

      ・この文は、広島県神石高原町の重松静馬さん(小説の元になった日記の作者)の生家に近い公園の
文学碑に刻まれている。
      ・後半部分の原典は、キケロ(古代ローマの政治家)の「どのような正義の戦いであろうと、戦争より平和を取る」。



  * 「プロレタリア作家になるか、大酒飲むか、どっちかしか無い」 (小田嶽夫著 「文学青春群像」)

      ・プロレタリア文学隆盛で芸術派は日陰にいた。井伏はこう言って大酒を飲み、左傾することはなかった。(S3〜S4頃:居酒屋で)


  * 「とかくメダカは群れたがるというが、それで結構」 (随筆「荻窪風土記 - 文学青年窶れ」)

      ・昭和初期に盛んだった文学青年たちの同人活動について書いている。


  * 「芸術家はざらに生まれるものではないから、それを粗末にあつかってはいけない」

     ・終戦直後(S21〜S22頃)、藤原審爾が、井伏を名誉社長、小山祐士・村上菊一郎を顧問とする知人の出版社設立案を持ちかけたが、
       井伏は、こう言って反対し引き受けなかった。(「井伏鱒二全集4:月報ー『井伏さんのこと』(藤原審爾)」(S42/5:筑摩書房)


  * 「げいじゅつをやれ」 (木山捷平あて寄書き(S23):木山捷平著 「阿佐ヶ谷会雑記」(S31))

     ・戦後最初の阿佐ヶ谷会(S23/2)での木山宛の寄書き。木山は心身不調のため上京できずに郷里の笠岡で悶々としていた。


  * 「春の夜や いやです だめです いけません」 (小説「駅前旅館」(S31〜32))

     ・井伏には、「冬の夜や いやですだめです いけません」 もある。永井龍男が座談会の席で、「熱海の飲み屋に色紙がある」と明かし、
        井伏は「失敗だなあ」と笑っている。(「アサヒグラフ増刊」(俳句の時代:1985(S60)/4ー井伏・永井・飯田龍太・河盛好蔵の座談会)
        なお、河盛好蔵は、「荻窪五十年」(<文学界>・S58/2)に、「井伏の名句」と紹介しており、公開はこれが最初かもしれない。

    

★ 青柳瑞穂

  * 「埋もれた文化を捜し得た」 ・ 「眼福の栄にあずかる」


     価値ある骨董品を、「掘り出し物」とか「見せてくれ」と言うのを嫌った青柳の言葉。(井伏鱒二随筆「青柳瑞穂と骨董」(S47))


  * 「どんなものが美しいかと言えば、それは真なるものである。どんなものが真であるかと言えば、
     それは自然のものである。自然の呈する色彩で、きたない色というものは絶対にない。」

                                            (随筆集「ささやかな日本発掘」(S35))


  * 「真に陶を知り、真に陶にとけこみ、真に陶を楽しむためには、ただそれだけをしていなければ
     ならない、つまり、ほかにする仕事があってはならない、無為でなければならない。」

                                              (随筆集「壺のある風景」(S45))

    

★ 秋沢三郎

  * 「僕の一生の望みは、文庫本に星一つ入るくらいのすっきりした小説集を1冊出せばいいんだ。」

                                              (上林暁著 小説「風前の灯」(S13)


  * 「君は書け。東京の奴等の、トント肝を冷やすような小説を書け。あいつらが、膝頭をカタカタ震わす
     ような。慾のない、マッサラの途方もない小説を書いちまえ」
 (檀一雄著 小説「孤独者」(S17))

      ・秋沢の寡作主義の言と、日中戦争時(S16夏)、満洲(新京)で檀一雄を訪ねた時の言。

    

★ 浅見 淵

  * 「清福を楽しむ将棋会」
 (随筆「昭和文壇側面史」(S43))

     日中戦争が始まり文学仲間の召集が相次ぎ、戦死の報もあった。出征壮行会は酒だけでなく清福を楽しもうと思いついた。

   

★ 小田嶽夫

  * 「雪国では春は徐々にしのび寄るのではなくて一辺にやってくる。天の岩戸がひらかれたような
     俄かな明るさだ。街には急に人影が殖えはずんだ話し声がし、下駄の音がひびき、自転車、
     人力車のベルが鳴り、大工の木を打つ音がこだまし、太陽の光りがこぼれるように降り、椿や
     梅が妍をきそって咲きこぼれる。女たちも長い間かぶりつづけていたおこそ頭巾をしまい込み、
     久しぶりにその雪のように白い頬を天日の前にさらけ出す。何とも祭のようなはなやかさだ。」
                                             
 (随筆「雪国の春」(S14))

     ・郷里 高田(現上越市)医王寺前にある文学碑の碑文。随筆「雪国の春」(S14作と推定)の発表誌は不詳。

    

★ 亀井勝一郎

  * 「人生とは 邂逅し 開眼し 瞑目す」
 (色紙)

     函館市の生家に近い青柳町にある文学碑には、「人生  邂逅し 開眼し 瞑目す」とある。 


  * 「愛とは 凝視の 永続である」 (色紙)

               (色紙(写真)は、「阿佐ヶ谷界隈の文士展」(H1:杉並区立郷土博物館発行)に掲載あり)


  * 「歳月は慈悲を生ず」 (墓所(多摩霊園)にある

    

★ 上林 暁

  * 「常に不遇でありたい。そして常に開運の願を持ちたい。」 
(小説「開運の願」(S23)エピグラフ)

     「Stay hungry, Stay foolish.」は、アップル社CEOのスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式(H17)のスピーチの中で
       引用した言葉で、日本でも話題になった。直訳すれば「空腹でいろ、愚かでいろ」だが・・、上林の言に通じるものを感じる。




  * 「戦争と病妻と、この二つの業苦に堪へねばならなかった長い歳月は、もう二度と繰返したくない。
     たとへ傑作が書けると言われても、繰返したくない。」
 (S23:「病妻物語−あとがき」)



  * 「七度生まれかわったとしても、文学をやりたい」 (徳広睦子著 随筆「兄の左手」)

     妹睦子の介護で生活し文学を続けたが、睦子は、「私には、もう二度とお付き合いをする気力はない。」と書いている。

  * 「文芸は 私の一の芸 二の芸 三の芸である」 (母校(現中村高校:現四万十市)の文学碑



  * 「見ずや竹の聲に道を悟り 桃の花に心を明らむ」 (色紙。「正法眼蔵随聞記」から)


  * 「梢に咲いてゐる花よりも 地に散ってゐる花を 美しいとおもふ」 (全集に寄せた題辞)

      ・
生家に近い入野松原(黒潮町大方)の文学碑。川端康成の染筆「上林暁生誕の地」の石碑とともにある。


  * 「天の星を叩き落さうとハ思はない 地の落花を集めたい」 (短冊)


  * 「五十でハ まだ何もかも気障、 六十になれば自在でありたい」 (色紙)



  * 「四万十川の 青き流れを 忘れめや」 (色紙。為松公園(四万十市中村)の文学碑



   
  (色紙など多くの書の写真が 「こころのふるさと 上林暁」(1998:大方町教育委員会発行)に掲載あり:大方町は、現黒潮町)

    

★ 木山捷平

  * 「杉山をとほりて杉山の中に 一本松を見出でたり あたりの杉に交って あたりの杉のやうに
     まっすぐに立ってゐるその姿 その姿がどうもをかしかりけり」 
(詩「杉山の松」(S3作))

     ・
詩「杉山の松」は、第二詩集(自費出版:S6)所収。郷里(現岡山県笠岡市)の古城山公園の文学碑


  *  「いっぱいの蕎麦くひ二杯三四杯 つひに八ぱい食ひにけるかも」 
(S17:玉川屋での寄書き)

     
・御嶽遠足時の寄書きで、当時徴用で戦地にいた井伏、小田、中村に思いを馳せ、「なるほどうまいとは思ったが、しかし
        そばがうまいからとてさびしさが帖消しされるわけにはいかなかった。」と書いている。(随筆「阿佐ヶ谷会雑記」(S31))



  * 「ひんがしの 島根のなかつ  きびつくに きび生ふる里を  たがわすれめや」
 (生家の歌碑)

     ・終戦(S20/8)直後、満州での難民生活の中で、故郷(現笠岡市)に想いを馳せた望郷のうた。生家の庭にはこの歌碑
       妻ミサヲの宮中歌会始入選作(S45) 「きりん草よつばひよどり咲きみちて釧路湿原に鶴なきわたる」 の歌碑が建つ。


  * 「濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるような
     どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふやうな
     そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた。」
 (詩「五十年」(S31作))

     ・詩「五十年」は、「木山捷平詩集」(S42)所収。郷里の笠岡市立図書館前庭の文学碑


  * 「敗戦後の長春での1年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた」 (妻に語った言葉)

     満州でのことは多くを語らなかったが、「もし墓碑銘ならこの言葉が最も適切である」と言った。(「木山捷平全集:第3巻」あとがき)


  * 「見るだけの妻となりたる五月かな」(S43:「酔いざめ日記」)

     捷平の没(S43.8.23)後、妻が捷平の手帳にあるのを見つけ、S43.5.1作と推察し「酔いざめ日記」に追記した。

    

★ 太宰 治

  * 「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり  ヴェルレエヌ」

                       (小説「葉」(S9)のエピグラフ。生家のある金木町の芦野公園の文学碑

     ヴェルレーヌの長編詩「智慧」の一節(堀口大学訳)。


  * 「生れて、すみません。」 (小説「二十世紀旗手」(S12)エピグラフ)

     山岸外史によれば、この詞は、自分の従兄弟の一行だけの創作詩のことを話したら、太宰がそれを無断使用したものという。


  * 「金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。」 (小説「HUMAN LOST」(S12))


  * 「笑われて、笑われて、つよくなる。」 (小説「HUMAN LOST」(S12))


  * 「富士には月見草がよく似合ふ」 (小説「富嶽百景」(S13)。山梨県御坂峠ほかに文学碑


  * 「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった!」 (小説「正義と微笑」(S17)。青森県蟹田に文学碑


  * 「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」 
                                                 (小説「右大臣実朝」(S18))


  * 「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で
     行こう。絶望するな。では、失敬。」

              (小説「津軽」(S19)の最後の行。後半(さらば〜)は青森市の文芸のこみちの文学碑


  * 「東京の人の愛国心は無邪気すぎます。」 (小説「惜別」(S20)


  * 「惚れたが悪いか」 (小説「お伽草子−カチカチ山」(S20)。河口湖(山梨県)の文学碑


  * 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」 (小説「ヴィヨンの妻」(S22))


  * 「おもてには快楽(けらく)をよそい、心には悩みわずらう。―ダンテ・アリギエリ」 
                                      
(小説「渡り鳥」(S23)のエピグラフ)


  * 「子供より親が大事、と思いたい。」 (小説「桜桃」(S23))


  * 「家庭の幸福は諸悪の本」 (小説「家庭の幸福」(S23))


  * 「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という
     難題一つにかかっていると言ってもいいのである。」 
(随筆「如是我聞」(S23))


  * 「恥の多い生涯を送ってきました。」 (小説「人間失格」(S23))


  * 「皆、子供はあまり出来ないやうですけど、陽気に育てて下さい あなたをきらいになったから
     死ぬのでは無いのです 小説を書くのがいやになったからです みんないやしい 欲張りばかり
     井伏さんは悪人です」 
(S23:妻あての遺書の下書きと見られている)

     ・玉川上水入水の直前までいた山崎富栄の部屋に残されていた紙片の文言。


         (註) 太宰の作品には、太宰の人生観、文学観、告白や主張などを短い句や節で端的に表現している個所が多い。
              これらの多くは太宰の名言、名句とするに相応しいと思うが、あまりに膨大であり、この項ではその中から
              全くの私見でこれだけは載せておきたいと思ったものだけに絞った。
              検索すると多くのサイトがあり、また、例えば長部日出雄に「富士には月見草―太宰治100の名言・名場面」
              (新潮文庫)という著作もある。太宰の才気、凄さをあらためて思い知るのである。

  参考サイト   弘前市立郷土文学館 文学碑を訪ねて 太宰など、青森県内の文学碑(碑文など詳細:写真付)  



★ 田畑修一郎

  * 「僕は作家としての積極といふことを常に考へる。それは作品を書くことだ。」 
(「初冬日記」(S16))

     政治と文学に関する感想を書いた一節。「積極は、常に一つの方向を向くことだけに当てはまるのではない」とも書いている。


  * 「見るとは考へることだ、考へるとは見方を発見することだ」 (「考へることと見ることと」(S15))

     広津和郎の「考へることと見ること」を読んだ感想の一節。(「初冬日記」とともに相当難解。ともに「田畑修一郎全集 第3巻」所収)

    

★ 外村 繁

  * 「私は妻のてい子を知り、てい子を愛するやうになって以来、そんな彼女をはぐくんでくれた
     妻の郷土の、人が、山が、野が、川が、無性に懐かしく慕はれた。年齢の故か、私は人の命
     といふものを、その人人の故郷の風物と切り離しては考へられなくなってゐたが、まして
     蔵王の麓にあるといふ、妻の郷土の、哀しいまでのつつましさに、一しほ心を引かれたのだ。
     土地はいかに貧しくとも、その人の心の、なんと深々と暖かいことか。」
 (小説「東北」(S25))

      ・小説「東北」は、金子ていと再婚した外村が、夫人の郷里を共に訪れた時のことがテーマ。夫人の母校である蔵王第二小学校に、
       夫人(文部省教育局婦人教育課の初代課長)の14歳時の詩「日和」の碑と、この「東北」の一節を刻んだ
文学碑が並んでいる。
       「日和」の碑文は、「日和  しづかな日和だよ。何にもないのに みんなが笑ってる。けしの花のほこりが となりの花へとんだよ」
        (碑文については、山形市立蔵王第二小学校に照会して、同校にご教示いただきました。(碑文は縦書きで改行がある))

      

    

★ 中村地平

  * 「雲はどこにでも似つかはしい姿で現れる」 
文学碑

      ・
郷里 宮崎市一ツ葉市民の森公園の文学碑。(小説「廃港淡水」(S7)が原典)

    

★ 浜野 修

  * 「うすれゆく 夕映雲をぬいて聳つ 富士大いなり 虚空の下に」 
(短冊)

      ・本人が歌人として気に入っていた自作。没後、浜野家は紺暖簾に白く染めあげて上林家への香典返しに使用した。

    

★ 古谷綱武

  * 「道は、すべての人の前にひらかれている。」
(詩「道は、いつもひらかれている」(初出未確認)) 


  * 「私は私であるよりしかたがない」
 (評論「自分を生きる」(S31)) 


  * 「愛することは、犠牲になることではない。ほんとうの恋愛、ほんとうの結婚の幸福は、相手を
     生かすとともに、自分をも生かすことである。」
 (評論「恋愛と結婚」(S27))

    

★ 村上菊一郎

  * 「置酒歓語」
(随筆「酒徒五つの楽しみ」(S32))

       故事成語には見当たらないので、村上菊一郎の造語だろう。なお、楠本憲吉に随筆集「置酒歓語」(S48:朝日新聞社)がある。


★ 安成二郎

  * 「豊葦原 瑞穂の国に生れ来て 米が食へぬとは 嘘のよな話」
(歌集「貧乏と恋と」(T5)所収)

     ・出生地の秋田県阿仁町の文学碑。荒畑寒村による紹介文(銅版)がはめ込まれている。

  * 「言霊の 幸はふ国に生れきて ものが言へぬとは 嘘のよな話」
(歌集「貧乏と恋と」(T5)所収)


  * 「歌よみて 将棋をさして居らるべき 世と思はねど これぞ楽しき」
(阿佐ヶ谷将棋会寄書き(S14))


  * 「老すでに我に到りぬ然れどもまた新しき年に学ばむ」 (文学碑

     
母校の秋田県能代市渟城第一小学校 校庭の文学碑(S45建立)。

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                          ([井伏鱒二・太宰治・・・阿佐ヶ谷文士の名言、名句、文学碑」の項 H25/5 UP)

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