青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)の津島家
明治40年(1907)6月落成。豪壮な大邸宅で、この地
に君臨する権力、金力の象徴としての偉容を誇った。
現在は「太宰治記念館「斜陽館」」となり、
五所川原市の観光施設になっている。
(写真:国の重要文化財指定を報じる朝日新聞(H16.10.16))
津島文治(長兄)と中畑慶吉、北芳四郎、飛島定城 *津島文治(つしま ぶんじ :M31(1898).1.20~S48(1973).5.6 享年75歳) ・早稲田大学政経学部卒業で井伏鱒二(文学部)とは同年齢の同期生。 太宰の問題行動に悩まされるが、太宰が荻窪に転居(S8(1933))して以降は、大宰 への対応には井伏を頼りにした。 ・太宰の初代との結婚に際し、太宰を除籍(勘当:S5/11)したが、実際には再々の太宰 の無軌道ぶりにも、生活費の仕送りは止めず、東京での文学続行や家人による 不定期な送金を許し、美知子との再婚や疎開についても陰ながら面倒を見るなどの 援助をしていた。 太宰の不都合な行動については、対外的には勘当ということで津島家とは無関係とし、 津島家の立場、体面を保ったが、実際には完全な絶縁ではなかった。 ・町長、県会議員、戦後は衆議院議員、青森県知事を歴任、参議院議員時に死去した。 (詳細は、別記項目「井伏鱒二と太宰治:師弟25年の軌跡」(サイト内リンク)参照) *中畑慶吉(なかはた(なかばた?)けいきち :M28(1895).4.8~S50(1975).10.7 享年80歳) 五所川原市の呉服商で、太宰の父の代から津島家に出入りしていた。 文治の信頼は厚く、太宰が起こした問題の解決を依頼され、例えば鎌倉腰越海岸心中 では文治に代わって対応、解決の中心的な役割を果たした。 頻繁に上京して北芳四郎とのコンビで井伏鱒二とも連携し、文治・太宰間の関係調整 にもあたり、太宰の最期まで文治の意に沿う働きをした。 *北芳四郎(きた よししろう(よしろう?ほうしろう?) :M24(1891)..~S50(1975).. 享年84歳) 東京在住、洋服仕立業を営み警視庁に出入りしていた。 中畑同様、太宰の父の代から津島家の信頼は厚く、文治は太宰の面倒見を託した。 太宰の生活には日頃から配意し、太宰、初代夫婦も何かと頼りにした節が窺える。 、中畑、井伏らと連携して文治の期待に応えた。 桜桃忌には、常連の一人として長年出席した。 =中畑慶吉と北芳四郎が関わった太宰に関する大きな出来事(「別記項目」(サイト内リンク)参照)=
*飛島定城(とびしま ていじょう :M37(1904).2.6~H7(1995)6.30 享年91歳) 太宰の三兄〈圭治)の友人、五所川原出身。東大卒業後東京日日新聞社(現・毎日新聞) に勤務、記者をしていた。文治とも親しく、文治から太宰の面倒を見るよう頼まれ、 昭和7年(1932)~同10年(1935)は飛島一家は太宰夫婦と同じ家に住み、家族で 太宰夫婦のために尽力した。適時、文治に進言もした。 戦後は、福島民報社の社長に就くなど、経済人としても手腕を発揮した。 ・鎌倉八幡神社裏自殺(縊死)未遂(S10(1935)/3)…「太宰治(人生と作品)-失踪」参照) (本項「太宰治を陰で支えた津島文治と三人の人物」」…2024/7UP) |