井伏鱒二:の「ノーベル賞候補」判明と『黒い雨』盗作疑惑

HOME (総目次)


今般(R8(2026).1.4)、井伏鱒二は1975(S50)年の
ノーベル文学賞候補に推薦されていたことが判明した。

選考主体のスウェーデン・アカデミーが非開示期間(50年)満了を機に選考資料
を開示したもので、井伏が候補に挙がっていたことが初めて公式に確認された。

パリのソルボンヌ・ヌーベル大による推薦で、推薦状には井伏のほか
エジプトのナギーブ・マフフーズ(1988年に受賞)ら計5名の名があるが
具体的な理由は記されていない。

・・井伏が推薦された理由・・

開示資料に記載がないので推測になるが、広島の原爆の惨状を描いた
小説『黒い雨』(S41)が評価されたとみてよかろう。

なお、この年の受賞者はイタリアの詩人エウジェニオ・モンターレで、
大江健三郎(1994年受賞)や「ムーミン」シリーズで有名な
フィンランドのトーベ・ヤンソンも候補だった。

・・「文学賞候補」と判明している日本人・・

東京新聞(R8(2026).1.5)「用語解説-ノーベル文学賞と日本人」によれば、
1901(M 34)年の授賞開始から今回開示(1975の資料)まで、
文学賞候補に推薦されたことが判明している日本人は次の10名である。


 ・賀川豊彦(47、48)


 ・谷崎潤一郎(58、60~65)

 ・西脇順三郎(58、60~68)

 ・川端康成(61~68)・・授賞(68)

 ・三島由紀夫(63~65、67~68)

 ・井上靖(69)

 ・石川達三(70)

 ・伊藤整(70)

 ・大江健三郎(74~75)・・授賞(94)

 ・井伏鱒二(75)


    (カッコ内数字は西暦年)

 「東京新聞」(2026.1.5)

(同日付「日本経済新聞」ほかに記事あり)

候補者として、故人で遠藤周作、安部公房、現役では村上春樹、多和田葉子らの名が
 挙がることが多いが、非開示期間が50年のため現段階では公式には確認できない。)


------------------------------------------------------

==『黒い雨』の成立経緯と盗作疑惑==

原爆による広島の惨状を描いた小説『黒い雨』は、昭和50年(1975)に
ノーベル文学賞候補だったことが判明したが、この作品は重松静馬の
「被爆日誌」(重松日記)のリライト、盗作まがいの作品であるとの
指摘が挙がり、多くの研究者らが論考を発表するなど話題になった。

『黒い雨』刊行の経緯と盗作疑惑騒動の概要を以下に整理した。

=『黒い雨』の刊行と反響=

*長篇小説『黒い雨』刊行(S41(1966)/10)

小説『黒い雨』は、雑誌「新潮」の昭和40年(1965)1月号に『姪の結婚』と
題して連載第1回が発表され、連載8回目(S40/8)から『黒い雨』と改題、
連載第21回の昭和41年(1966)9月号で完結した。 

連載終了直後の昭和41年(1966)10月、新潮社は単行本『黒い雨』を刊行した。

*昭和41年(1966)文化勲章受章 ・ 野間文芸賞受賞

・文化勲章(S41(1966))受章は、井伏の長年にわたる文学活動の功労が
認められた結果だが(井伏68歳)、叙勲は「黒い雨」連載終了直後に
決定していることから、この作品も関係しているのではないだろうか。

・第19回野間文芸賞は、刊行直後(S41/11)の『黒い雨』に決定した。

*各国語への翻訳、テレビドラマ化、映画化

Wikipedia 「黒い雨(小説)」 に詳しいので参照ください。

・翻訳は、英語(1967:「Blac rain」)をはじめ、ポーランド語(1971)、
フランス語(1972)、ドイツ語(1974)・・と発表直後から世界へ広がった。

ノーベル賞候補は1975年(S50)で、こうした時期に符合する。
この後も各国語への翻訳は続き、Wikiには20ヶ国が載っている。

・テレビでは、昭和58年(1983)に日本テレビ系列で「黒い雨・姪の結婚」と
題してドラマ化、放送された。(出演は森繁久彌、奈良岡朋子ら)

・映画は、平成元年(1989)に「黒い雨」の題名で公開された。今村昌平が
監督、田中好子、北村和夫、市原悦子らの出演である。

日本アカデミー賞(1990)をはじめ、内外の映画祭などで受賞があり、
このころの話題作となった。


=重松の被爆日誌(重松日記)と井伏の執筆まで=

松重静馬著「重松日記」(相馬正一編集:2001/5:筑摩書房)がある。
本項は、主に本書および巻末に載る次の資料に拠る。

・重松静馬宛井伏鱒二書簡26通(S37.7.2付~S41.11.20付)

・相馬正一による「解説」(「「黒い雨」成立の経緯」ほか)

・・重松静馬(M36.4..2~S55(1980).10.19:享年77)・・

井伏との親交=戦後、趣味の釣りを通じて井伏と知り合い、昭和22年
(1947)5月頃、自宅がある広島県神石郡小畠村に、生家〈現・福山市)に
疎開中の井伏を招き、小畠代官所跡を案内するなど親交を深めていた。

井伏には「小畠もの」といわれる一連の作品があるが、
この訪問時に識った古文書などの資料に拠っている。

・・重松静馬の被爆と体験記録「被爆日誌」・・

重松は、戦時中は広島市内に住み、市の北郊にある日本繊維(株)に
  勤務しており、昭和20年8月6日、出勤途中に横川駅で原爆に遭った。

重松は、被爆の翌日から、自ら体験し、あるいは見聞した被爆状況を
 手帳「当用日記」にメモしており、帰郷後このメモに基づいて
昭和20年9月から断続的にノートを執った。

広島市から小畠の生家に帰り(S20/8下旬)、被爆による心身不調の
養生に努めていた重松は、この「被爆日誌」を子孫のために本格的
な記録として書き残そうと思い立ち、昭和24年(1949)春から
原稿用紙に書き始め、昭和35年(1960)1月10日に脱稿した。

被爆から約15年、入退院などで断続的な執筆だったが、四百字詰
原稿用紙375枚(重複部分を含む)に浄書が完了したのである。

・・「被爆日誌」の閲読を井伏に依頼・・

重松から井伏に宛てた昭和37年6月26日付書簡があり、
その中に次の箇所がある。

「私こと広島原爆被災の日より15日終戦の正午迄の被爆日誌を記して
子孫に残す可いたしておりました。(中略) こうしたものを持ち合わせて
居りますので一度ご高覧下され、御判断願わしう存じます。」(前掲書)

井伏は,7月2日付葉書で「被爆日誌」を郵送してほしいと返答した。

・・井伏に郵送された「被爆日誌」・・

重松は、「被爆日誌」を読み返し、推敲したうえ、
最後に”被爆其後のことども”(26枚)を書き加えた。

こうして新たに浄書した四百字詰原稿用紙は推定で合計287枚、
重松は、これを昭和37年(1962)7月11日に井伏宛に郵送した。

・このように、重松が書いた「被爆日誌」は次の4種がある。

被爆の翌日から記入した「当用日記」のメモ
帰郷後、そのメモに基づいて執った「ノート」
子孫のために執筆した「原稿用紙:376枚」

井伏に送付した「原稿用紙:推定287枚)」

「原稿用紙(376枚)」は、後に「重松日記」として
刊行(2001/5)され、広く知られるようななった。

は、井伏が破棄し、現存しない。
①、②の所在は、私は未確認)


・・井伏は 「被爆日誌」の返却を申し出・・

井伏はこの日誌を読んで、「材料として非常に食手が動きますが、
帰郷の節一度談話を聞きたいものと思ひます。」と返信し、た。
(S38.1.1付重松宛葉書)

この後しばらく、井伏はこれに関して着手できないまま日が過ぎ、
昭和39年3月29日付書簡でお詫びと日誌の返却を申し出た。

この直後の動きについて、前掲書の「解説」に次のようにある。

「これに対して重松から、返すに及ばないからお手許に置いてご随意に
利用して構わないことと、そのことで調査することがあれば遠慮なく申し
つけてほしい旨の返信あったので、井伏は再び日誌を素材にして創作
することを思い立ち、早速重松に対して現地取材の協力を依頼する。

井伏夫人の話では、執筆を始めるまでに『新潮』編集部の
菅原国隆氏を伴って何度か福山市や広島市を訪れ、その都度
重松とも会っていたというから、重松のセットした被爆関係者の
席に顔を出して取材していたものと思われる。」


・・新潮社は「被爆日誌」に謝礼支払- 井伏は起稿 ・・

このように、昭和39年(1964)春から新たな動きが見られるが、
井伏と重松の書簡を辿ると、井伏が執筆に取り掛かるのは
この年の秋である。

まず、同年9月19日付重松宛書簡に次のように書いている。

「最近、出版社が私にまたあの資料をもとに物語を書けといふのですが、
社から貴方に対して(ー略ー)どのくらゐ礼金を差上げたら宜しかろうかと
云ふのです。(中略)
それからもう一つ、実名にしてはよくないかどうかもお知らせください。」

これに対し、重松は翌月(S39/10)5日付で返信している。

実名御使用御執筆の程をお願い申し上げます。
お礼につては先生の御気持で額をお決め下さい。

この二点が要点の返信で、最後に「先生の御体面に関しませぬ程度に
おいて御取計らい下さいます様、伏してお願い申上げます」としている。


 これを受けて、井伏は新潮社と交渉、15万円で決着し、同社は
12月に10万円、翌年(S40)1月に5万円を重松宛に送った。

井伏は、小説『姪の結婚』の連載第1回を「新潮」1月号(S40)に
発表し、そのゲラ刷りを12月5日(S39)には見ているので
(同日付重松宛書簡)、起稿は10月~11月と察せられる。


=題名の変更:『姪の結婚』から『黒い雨』へ=

・・題名の変更は「敵前迂廻」 ・・

題名の『姪の結婚』は連載8回目(「新潮」8月号(S40))から
『黒い雨』に変更された。連載中の題名変更は異例中に異例だろう。

何があったのか・・井伏がインタビューに答えた記事がある。

・「『黑い雨』執筆前後 ―被爆25年にあたって―」
(S45(1970)8.2発行『赤旗』(日曜版))

・「井伏さんから聞いたこと その十一 「黒い雨」」
(「井伏鱒二全集 第13巻:月報13」
(伴俊彦・S50/4:筑摩書房))

両記事とも井伏からの聞き取りの編集で、題名変更の経緯は
詳細に書かれているが、次の個所に集約されているといえよう。

「『黒い雨』はこういう取材しながら書いた。めいの日記がないと
いうことがわかって、この作品は敵前迂廻している。
題名も
『姪の結婚』から『黒い雨』に変った。批評家が「作品に
矛盾がある」と書いているが、それは本当だ。」(「赤旗」より)

つまり、井伏は、原爆症に苦しむ姪(小説では矢須子)の
「病床日記」を借りることを前提に、半年くらいの連載予定で
以前に叔父から聞いた話を元に空想で起稿したが、借りる
段になって、その日記はすでに焼やされていたことが分かった。

原爆症の実際は想像を絶しており、そのまま書斎に座して
空想で書き続けられるものではなかった。

・・広島を訪問、取材・資料収集で書き継ぐ ・・

井伏は執筆を続けるため広島を頻繁に訪れ、被爆者からの聞き
取り取材、資料収集などを重ねるにつれ、原爆の惨状に正面から
向き合うところとなった。井伏は次のように語っている。

「事件が事件だから、書いていて、事件そのものに対して真面目な
気持になる。作品を書く真面目さとは違う事件そのものの真面目
だね。体験者から見れば、あれに書かれていることは、
あの出来事
のほんの一部分で、物足りないだろう。」(前掲「月報13」より)


姪を軸とする物語から広島の被爆の惨状に軸が移る長編作品
となり、当初の構想の変化で題名の変更は不可避となった。

井伏は次のようにも語っている。

「あの出来事は空想で書けるというようなものではなかった。
空前絶後の問題だったのだ。それであんなルポルタージュ風
のものになった。」(前掲「赤旗」より)


重松の「被爆日誌」に始まり、多くの被爆者や関係者の絶大な
協力を得ることで完成した作品であることが分かる。


=単行本『黒い雨』の「共著」を重松は固辞=

井伏は、連載最終回(第21回)分を出稿すると(S41/7)、単行本
刊行のため重松と連絡を取りあった。重松の「当用日記」によれば
8月18日~19日(S41)に小林旅館(福山駅前)で『黒い雨』
全編の読み合わせを実施、初出の訂正、加筆などを完了した。

前掲書「解説」(相馬正一)に次のようにある。

「そのあと重松の慰労を兼ねて尾道の向島にある高見山荘に一泊
する。その際井伏は重松に対して「これを二人の共著に
したいと
思うが、どうですか」と申し入れたが、重松は「そんなことを
すれば、
先生のお名前に瑕がつきます。私は資料提供者として充分
報われていますから・・・」と言って固辞したという話を
重松家の当主
〈注〉から伺った。」

また、同「解説」には、重松静馬について次のようにある。

「重松は自分の悲願を叶えてくれた井伏を生涯尊敬し、井伏の了解
を得て『黒い雨』の単行本に<重松静馬>と署名して知人知己に
贈ることを無上の愉しみにしていたという。(重松文宏氏談)」〈注)

(注)
重松家の養女フミエの夫(S36結婚)の名前は「重松文宏」である。
相馬が聞き取りを行なった重松家の当主とみてよかろう。

井伏は、単行本として刊行するに際し、重松に共著を申し出たが
重松はこれを固辞したのである。

推測だが、重松静馬は、自身も被爆者で体調に不安があり、短い
余命を覚悟し、最後まで黒子に徹して井伏を援けることを生き
甲斐とし、家人にもその生き方が伝わっていたと思える。

重松家が長らく「被爆日誌」を公開しなかった理由の一つでもあろう。
公開(2001/5)まで、『黒い雨』刊行から35年、静馬没後20年、
井伏没後8年を経ている。


=井伏の受賞挨拶、談話と重松の「被爆日誌」=

『黒い雨』(S41/10)は、この年の野間文芸賞(第19回)を受賞した。
井伏はその贈呈式(S41.12.17)で次のように挨拶している。
(前掲「解説」(相馬)および松本武夫著「井伏鱒二 人と文学」より)

「あの作品は、世間の噂とか、新聞に出たこととか、それから人から借りた
手記、日記、患者から聞きました録音、書物にあったこまごました
ものを
集めましてアレンジしたものですから、純粋の意味で小説とは
いえない
でしょう。…井伏鱒二編著とすればよいもので、賞を
いただくのは気が
ひけます。手放しで喜べないところがあります。 (中略) とにかく、
私はこういう立派な賞をいただいてやましいような気がします。」

謙遜過剰の感はあるが、創作というより、多くの被爆者、関係者の
協力による事実記録作品であることを強調した挨拶と理解できる。

この後の、前掲「赤旗」や「月報13」のインタビュー記事においても
ほぼ同様で、題名変更について、広島での取材で原爆の惨状に
圧倒され、その事実の記録を軸に変えた事情を詳細に語っている。

この時点では、重松やその「被爆日誌」のことは一般にはほとんど
知られておらず、井伏の言葉はそのまま受け取られたと察せられる。

しかし、既述のように、その後「重松日記」の刊行(2001/5)があり、
「被爆日誌」や井伏の重松宛書簡などが公開された。

現在では、『黒い雨』完成までのや過程、作品内容などにおいて重松と
「被爆日誌」への依存度合が極めて高いことが明らかになっている。

現時点で、当時の井伏の挨拶や談話を読むと、このことに全く触れて
いないことが気になる。むしろこれを“隠している”との印象すらある。
井伏、重松の間で、何らかの申し合わせがあったのか?

いずれにしろ、二人とも他に、特にこれに関する資料を残しておらず、
井伏の挨拶や談話の不自然さ、違和感が残っている。


=『黑い雨』に対する盗作(リライト)疑惑=

年を経て、平成5年(1993)8月、豊田清史は「『黒い雨』と「重松日記」」
〈風媒社)を刊行して重松静馬の「被爆日誌」の存在を示し、井伏の
『黒い雨』はこの日誌を写した盗作であるかの如く自説を展開した。

(井伏は、この刊行と同時期に病没している。(H5(1993).7.10・95歳)
豊田の主張に反応できる状態になかった。重松没後13年である。)

これが契機で井伏の「盗作」、「盗作疑惑」が文学的、社会的な話題に
なり、以降、多くの研究者らがこれに関して論考などを発表している。

中でも、相馬正一はこの問題に本格的に取り組み、豊田説への反論、
自論を発表、その尽力があって重松家が保管する「被爆日誌」や井伏
の書簡などを内容とする「重松日記」の刊行(2001/5)が行われた。

作家の猪瀬直樹(元東京都知事・現参議院議員)は、井伏について、
『黒い雨』だけでなく『山椒魚』など有名作品には種本があり、いわば
盗作まがいの安易な作品作りをする作家と強烈に批判している。

「ピカレスクー太宰治伝」(2000/10)、「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」
(2001/8)などに詳記し、書誌学者として著名な谷沢永一が猪瀬説に
同調して強烈な井伏批判を展開し、マスコミの注目度も高まった。

猪瀬が指摘した作品は、『黒い雨』のほか『山椒魚』、『漢詩和訳』
(「勧酒(さよならだけが人生だ)」など)、『青ヶ島大概記』、
『ジョン万次郎漂流記』(直木賞受賞)で、この盗作疑惑問題に
ついては、次のサイト内別項目に詳記したので参照ください。

「井伏鱒二の「盗作疑惑」を解明する」


=『黑い雨』盗作疑惑についての私見=

「黒い雨」 には専門家らが指摘する連載途中での題名変更という
小説構成上の破綻があり、さらに猪瀬らが指摘する “リライト”の
部分 が多いにしても、純粋な文学作品論はともかくとして、
原爆の非人道性、反戦を人の心に深く焼き付ける文学作品
として高く評価すべきだろう。

仮に、「重松日記」をそのまま出版したとして、「黒い雨」のように注目を
浴びることができただろうか? 重松は、被爆体験記などが多数出て
いるので出版には自信がないとも漏らす状況にあり、答えは否だろう。


文化勲章受賞(S41)に繋がり、世界的にも注目を浴びた。
創作性に疑問がある作品で受賞するなどへの嫌悪感はあっても、
少なくとも、小説化した井伏の文業、功績は否定できない。


現在では主要参考資料は本の巻末などに相応に明示する。
今から思えば、井伏がそれをしなかったのは迂闊の誹りを
免れないだろうが、著作権の概念や認識、取扱いが現在の
ように一般化していない時代のこと、それに、重松の人生観、
生き方、井伏との人間関係などを推し量ると、「盗作疑惑」 と
大きな声で責められなければならないのか、疑問である。

(「井伏鱒二:の「ノーベル賞候補」判明と『黒い雨』盗作疑惑」 R8/1 UP))