=『黒い雨』の刊行と反響=
*長篇小説『黒い雨』刊行(S41(1966)/10)
小説『黒い雨』は、雑誌「新潮」の昭和40年(1965)1月号に『姪の結婚』と
題して連載第1回が発表され、連載8回目(S40/8)から『黒い雨』と改題、
連載第21回の昭和41年(1966)9月号で完結した。
連載終了直後の昭和41年(1966)10月、新潮社は単行本『黒い雨』を刊行した。
*昭和41年(1966)文化勲章受章 ・ 野間文芸賞受賞
・文化勲章(S41(1966))受章は、井伏の長年にわたる文学活動の功労が
認められた結果だが(井伏68歳)、叙勲は「黒い雨」連載終了直後に
決定していることから、この作品も関係しているのではないだろうか。
・第19回野間文芸賞は、刊行直後(S41/11)の『黒い雨』に決定した。
*各国語への翻訳、テレビドラマ化、映画化
Wikipedia 「黒い雨(小説)」 に詳しいので参照ください。
・翻訳は、英語(1967:「Blac rain」)をはじめ、ポーランド語(1971)、
フランス語(1972)、ドイツ語(1974)・・と発表直後から世界へ広がった。
ノーベル賞候補は1975年(S50)で、こうした時期に符合する。
この後も各国語への翻訳は続き、Wikiには20ヶ国が載っている。
・テレビでは、昭和58年(1983)に日本テレビ系列で「黒い雨・姪の結婚」と
題してドラマ化、放送された。(出演は森繁久彌、奈良岡朋子ら)
・映画は、平成元年(1989)に「黒い雨」の題名で公開された。今村昌平が
監督、田中好子、北村和夫、市原悦子らの出演である。
日本アカデミー賞(1990)をはじめ、内外の映画祭などで受賞があり、
このころの話題作となった。
=重松の被爆日誌(重松日記)と井伏の執筆まで=
松重静馬著「重松日記」(相馬正一編集:2001/5:筑摩書房)がある。
本項は、主に本書および巻末に載る次の資料に拠る。
・重松静馬宛井伏鱒二書簡26通(S37.7.2付~S41.11.20付)
・相馬正一による「解説」(「「黒い雨」成立の経緯」ほか)
・・重松静馬(M36.4..2~S55(1980).10.19:享年77)・・
井伏との親交=戦後、趣味の釣りを通じて井伏と知り合い、昭和22年
(1947)5月頃、自宅がある広島県神石郡小畠村に、生家〈現・福山市)に
疎開中の井伏を招き、小畠代官所跡を案内するなど親交を深めていた。
井伏には「小畠もの」といわれる一連の作品があるが、
この訪問時に識った古文書などの資料に拠っている。
・・重松静馬の被爆と体験記録「被爆日誌」・・
*重松は、戦時中は広島市内に住み、市の北郊にある日本繊維(株)に
勤務しており、昭和20年8月6日、出勤途中に横川駅で原爆に遭った。
*重松は、被爆の翌日から、自ら体験し、あるいは見聞した被爆状況を
手帳「当用日記」にメモしており、帰郷後このメモに基づいて
昭和20年9月から断続的にノートを執った。
*広島市から小畠の生家に帰り(S20/8下旬)、被爆による心身不調の
養生に努めていた重松は、この「被爆日誌」を子孫のために本格的
な記録として書き残そうと思い立ち、昭和24年(1949)春から
原稿用紙に書き始め、昭和35年(1960)1月10日に脱稿した。
被爆から約15年、入退院などで断続的な執筆だったが、四百字詰
原稿用紙375枚(重複部分を含む)に浄書が完了したのである。
・・「被爆日誌」の閲読を井伏に依頼・・
重松から井伏に宛てた昭和37年6月26日付書簡があり、
その中に次の箇所がある。
「私こと広島原爆被災の日より15日終戦の正午迄の被爆日誌を記して
子孫に残す可いたしておりました。(中略) こうしたものを持ち合わせて
居りますので一度ご高覧下され、御判断願わしう存じます。」(前掲書)
井伏は,7月2日付葉書で「被爆日誌」を郵送してほしいと返答した。
・・井伏に郵送された「被爆日誌」・・
重松は、「被爆日誌」を読み返し、推敲したうえ、
最後に”被爆其後のことども”(26枚)を書き加えた。
こうして新たに浄書した四百字詰原稿用紙は推定で合計287枚、
重松は、これを昭和37年(1962)7月11日に井伏宛に郵送した。
・このように、重松が書いた「被爆日誌」は次の4種がある。
①被爆の翌日から記入した「当用日記」のメモ
②帰郷後、そのメモに基づいて執った「ノート」
③子孫のために執筆した「原稿用紙:376枚」
④井伏に送付した「原稿用紙:推定287枚)」
・③「原稿用紙(376枚)」は、後に「重松日記」として
刊行(2001/5)され、広く知られるようななった。
④は、井伏が破棄し、現存しない。
(①、②の所在は、私は未確認)
・・井伏は 「被爆日誌」の返却を申し出・・
*井伏はこの日誌を読んで、「材料として非常に食手が動きますが、
帰郷の節一度談話を聞きたいものと思ひます。」と返信し、た。
(S38.1.1付重松宛葉書)
*この後しばらく、井伏はこれに関して着手できないまま日が過ぎ、
昭和39年3月29日付書簡でお詫びと日誌の返却を申し出た。
*この直後の動きについて、前掲書の「解説」に次のようにある。
「これに対して重松から、返すに及ばないからお手許に置いてご随意に
利用して構わないことと、そのことで調査することがあれば遠慮なく申し
つけてほしい旨の返信あったので、井伏は再び日誌を素材にして創作
することを思い立ち、早速重松に対して現地取材の協力を依頼する。
井伏夫人の話では、執筆を始めるまでに『新潮』編集部の
菅原国隆氏を伴って何度か福山市や広島市を訪れ、その都度
重松とも会っていたというから、重松のセットした被爆関係者の
席に顔を出して取材していたものと思われる。」
・・新潮社は「被爆日誌」に謝礼支払- 井伏は起稿 ・・
*このように、昭和39年(1964)春から新たな動きが見られるが、
井伏と重松の書簡を辿ると、井伏が執筆に取り掛かるのは
この年の秋である。
・まず、同年9月19日付重松宛書簡に次のように書いている。
「最近、出版社が私にまたあの資料をもとに物語を書けといふのですが、
社から貴方に対して(ー略ー)どのくらゐ礼金を差上げたら宜しかろうかと
云ふのです。(中略)
それからもう一つ、実名にしてはよくないかどうかもお知らせください。」
・これに対し、重松は翌月(S39/10)5日付で返信している。
・実名御使用御執筆の程をお願い申し上げます。
・お礼につては先生の御気持で額をお決め下さい。
この二点が要点の返信で、最後に「先生の御体面に関しませぬ程度に
おいて御取計らい下さいます様、伏してお願い申上げます」としている。
・これを受けて、井伏は新潮社と交渉、15万円で決着し、同社は
12月に10万円、翌年(S40)1月に5万円を重松宛に送った。
*井伏は、小説『姪の結婚』の連載第1回を「新潮」1月号(S40)に
発表し、そのゲラ刷りを12月5日(S39)には見ているので
(同日付重松宛書簡)、起稿は10月~11月と察せられる。
=題名の変更:『姪の結婚』から『黒い雨』へ=
・・題名の変更は「敵前迂廻」 ・・
題名の『姪の結婚』は連載8回目(「新潮」8月号(S40))から
『黒い雨』に変更された。連載中の題名変更は異例中に異例だろう。
何があったのか・・井伏がインタビューに答えた記事がある。
・「『黑い雨』執筆前後 ―被爆25年にあたって―」
(S45(1970)8.2発行『赤旗』(日曜版))
・「井伏さんから聞いたこと その十一 「黒い雨」」
(「井伏鱒二全集 第13巻:月報13」
(伴俊彦・S50/4:筑摩書房))
両記事とも井伏からの聞き取りの編集で、題名変更の経緯は
詳細に書かれているが、次の個所に集約されているといえよう。
「『黒い雨』はこういう取材しながら書いた。めいの日記がないと
いうことがわかって、この作品は敵前迂廻している。
題名も『姪の結婚』)から『黒い雨』に変った。批評家が「作品に
矛盾がある」と書いているが、それは本当だ。」(「赤旗」より)
つまり、井伏は、原爆症に苦しむ姪(小説では矢須子)の
「病床日記」を借りることを前提に、半年くらいの連載予定で
以前に叔父から聞いた話を元に空想で起稿したが、借りる
段になって、その日記はすでに焼やされていたことが分かった。
原爆症の実際は想像を絶しており、そのまま書斎に座して
空想で書き続けられるものではなかった。
・・広島を訪問、取材・資料収集で書き継ぐ ・・
井伏は執筆を続けるため広島を頻繁に訪れ、被爆者からの聞き
取り取材、資料収集などを重ねるにつれ、原爆の惨状に正面から
向き合うところとなった。井伏は次のように語っている。
「事件が事件だから、書いていて、事件そのものに対して真面目な
気持になる。作品を書く真面目さとは違う事件そのものの真面目
だね。体験者から見れば、あれに書かれていることは、あの出来事
のほんの一部分で、物足りないだろう。」(前掲「月報13」より)
姪を軸とする物語から広島の被爆の惨状に軸が移る長編作品
となり、当初の構想の変化で題名の変更は不可避となった。
井伏は次のようにも語っている。
「あの出来事は空想で書けるというようなものではなかった。
空前絶後の問題だったのだ。それであんなルポルタージュ風
のものになった。」(前掲「赤旗」より)
重松の「被爆日誌」に始まり、多くの被爆者や関係者の絶大な
協力を得ることで完成した作品であることが分かる。
=単行本『黒い雨』の「共著」を重松は固辞=
*井伏は、連載最終回(第21回)分を出稿すると(S41/7)、単行本
刊行のため重松と連絡を取りあった。重松の「当用日記」によれば
8月18日~19日(S41)に小林旅館(福山駅前)で『黒い雨』
全編の読み合わせを実施、初出の訂正、加筆などを完了した。
前掲書「解説」(相馬正一)に次のようにある。
「そのあと重松の慰労を兼ねて尾道の向島にある高見山荘に一泊
する。その際井伏は重松に対して「これを二人の共著にしたいと
思うが、どうですか」と申し入れたが、重松は「そんなことをすれば、
先生のお名前に瑕がつきます。私は資料提供者として充分
報われていますから・・・」と言って固辞したという話を
重松家の当主〈注〉から伺った。」
また、同「解説」には、重松静馬について次のようにある。
「重松は自分の悲願を叶えてくれた井伏を生涯尊敬し、井伏の了解
を得て『黒い雨』の単行本に<重松静馬>と署名して知人知己に
贈ることを無上の愉しみにしていたという。(重松文宏氏談)」〈注)
(注)重松家の養女フミエの夫(S36結婚)の名前は「重松文宏」である。
相馬が聞き取りを行なった重松家の当主とみてよかろう。
井伏は、単行本として刊行するに際し、重松に共著を申し出たが
重松はこれを固辞したのである。
*推測だが、重松静馬は、自身も被爆者で体調に不安があり、短い
余命を覚悟し、最後まで黒子に徹して井伏を援けることを生き
甲斐とし、家人にもその生き方が伝わっていたと思える。
重松家が長らく「被爆日誌」を公開しなかった理由の一つでもあろう。
公開(2001/5)まで、『黒い雨』刊行から35年、静馬没後20年、
井伏没後8年を経ている。
=井伏の受賞挨拶、談話と重松の「被爆日誌」=
*『黒い雨』(S41/10)は、この年の野間文芸賞(第19回)を受賞した。
井伏はその贈呈式(S41.12.17)で次のように挨拶している。
(前掲「解説」(相馬)および松本武夫著「井伏鱒二 人と文学」より)
「あの作品は、世間の噂とか、新聞に出たこととか、それから人から借りた
手記、日記、患者から聞きました録音、書物にあったこまごましたものを
集めましてアレンジしたものですから、純粋の意味で小説とはいえない
でしょう。…井伏鱒二編著とすればよいもので、賞をいただくのは気が
ひけます。手放しで喜べないところがあります。 (中略) とにかく、
私はこういう立派な賞をいただいてやましいような気がします。」
謙遜過剰の感はあるが、創作というより、多くの被爆者、関係者の
協力による事実記録作品であることを強調した挨拶と理解できる。
この後の、前掲「赤旗」や「月報13」のインタビュー記事においても
ほぼ同様で、題名変更について、広島での取材で原爆の惨状に
圧倒され、その事実の記録を軸に変えた事情を詳細に語っている。
この時点では、重松やその「被爆日誌」のことは一般にはほとんど
知られておらず、井伏の言葉はそのまま受け取られたと察せられる。
しかし、既述のように、その後「重松日記」の刊行(2001/5)があり、
「被爆日誌」や井伏の重松宛書簡などが公開された。
*現在では、『黒い雨』完成までのや過程、作品内容などにおいて重松と
「被爆日誌」への依存度合が極めて高いことが明らかになっている。
現時点で、当時の井伏の挨拶や談話を読むと、このことに全く触れて
いないことが気になる。むしろこれを“隠している”との印象すらある。
井伏、重松の間で、何らかの申し合わせがあったのか?
いずれにしろ、二人とも他に、特にこれに関する資料を残しておらず、
井伏の挨拶や談話の不自然さ、違和感が残っている。
=『黑い雨』に対する盗作(リライト)疑惑=
*年を経て、平成5年(1993)8月、豊田清史は「『黒い雨』と「重松日記」」
〈風媒社)を刊行して重松静馬の「被爆日誌」の存在を示し、井伏の
『黒い雨』はこの日誌を写した盗作であるかの如く自説を展開した。
(井伏は、この刊行と同時期に病没している。(H5(1993).7.10・95歳)
豊田の主張に反応できる状態になかった。重松没後13年である。)
これが契機で井伏の「盗作」、「盗作疑惑」が文学的、社会的な話題に
なり、以降、多くの研究者らがこれに関して論考などを発表している。
中でも、相馬正一はこの問題に本格的に取り組み、豊田説への反論、
自論を発表、その尽力があって重松家が保管する「被爆日誌」や井伏
の書簡などを内容とする「重松日記」の刊行(2001/5)が行われた。
作家の猪瀬直樹(元東京都知事・現参議院議員)は、井伏について、
『黒い雨』だけでなく『山椒魚』など有名作品には種本があり、いわば
盗作まがいの安易な作品作りをする作家と強烈に批判している。
「ピカレスクー太宰治伝」(2000/10)、「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」
(2001/8)などに詳記し、書誌学者として著名な谷沢永一が猪瀬説に
同調して強烈な井伏批判を展開し、マスコミの注目度も高まった。
*猪瀬が指摘した作品は、『黒い雨』のほか『山椒魚』、『漢詩和訳』
(「勧酒(さよならだけが人生だ)」など)、『青ヶ島大概記』、
『ジョン万次郎漂流記』(直木賞受賞)で、この盗作疑惑問題に
ついては、次のサイト内別項目に詳記したので参照ください。
「井伏鱒二の「盗作疑惑」を解明する」
=『黑い雨』盗作疑惑についての私見=
*「黒い雨」 には専門家らが指摘する連載途中での題名変更という
小説構成上の破綻があり、さらに猪瀬らが指摘する “リライト”の
部分 が多いにしても、純粋な文学作品論はともかくとして、
原爆の非人道性、反戦を人の心に深く焼き付ける文学作品
として高く評価すべきだろう。
仮に、「重松日記」をそのまま出版したとして、「黒い雨」のように注目を
浴びることができただろうか? 重松は、被爆体験記などが多数出て
いるので出版には自信がないとも漏らす状況にあり、答えは否だろう。
文化勲章受賞(S41)に繋がり、世界的にも注目を浴びた。
創作性に疑問がある作品で受賞するなどへの嫌悪感はあっても、
少なくとも、小説化した井伏の文業、功績は否定できない。
*現在では主要参考資料は本の巻末などに相応に明示する。
今から思えば、井伏がそれをしなかったのは迂闊の誹りを
免れないだろうが、著作権の概念や認識、取扱いが現在の
ように一般化していない時代のこと、それに、重松の人生観、
生き方、井伏との人間関係などを推し量ると、「盗作疑惑」 と
大きな声で責められなければならないのか、疑問である。
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