太宰治「メリイクリスマス」とモデル(秋田富子・林聖子)

HOME (総目次)
太宰治は、短編小説「メリイクリスマス」を「中央公論」(S22(1947)/1)に発表した。
疎開先の生家で終戦(S20/8)を迎えて帰京(S21/11)、その直後の第1作である。

”私(作者)が疎開から帰った東京は少しも変わっていない。
もう少し変るべきだと思いつつ自分も変わらず過ごすうち、
街で偶然にシヅエ子と再会した・・” と物語は始まる。

この小説の登場人物、主人公シヅエ子とその母にはモデルがいる。
シヅエ子は林聖子(後にバー「風紋」の主人)、母(実母)は秋田富子である。
そして、今、二人は禅林寺(三鷹)の墓地、太宰の墓のすぐ傍に眠っている。

本項は、この作品の背景や意図、評価についてを「第Ⅰ部」に、
富子・聖子親子と大宰との関係についてを「第Ⅱ部」にまとめた。

=主要参考資料(本項末に詳細資料)=

「風紋25年:いとぐるま-母と私-(林聖子)」(1986:「「風紋の二十五年」の本を作る会)
森まゆみ著「聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(2021:亜起書房)
南田偵一著「文壇バー風紋青春記:
何歳からでも読める太宰治」」(2023:未知谷))
「太宰治全集 8-解題(山内祥史)・月報(林聖子)」(1990/8:筑摩書房」)



                第Ⅰ部  小説「メリイクリスマス」


 1.小説「メリイクリスマス」・・執筆の背景

  (1)終戦(S20(1945).8.15)-青森で活発な文学活動-帰京(S21.11.14)

   ①帰京まで、青森で1年3ヵ月余

     
     妻美知子の実家(甲府)に疎開した太宰 一家は甲府大空襲(S20.7..7)で焼け出され、
     青森の大宰の生家(金木町)に再疎開(S20/7末)し、そこで終戦(S20.8.15)を迎えた。
     大宰の帰京は、長兄文治の衆院選(S21/4)立候補や祖母の死-葬儀(S21/10)が
     あって、終戦から1年3ヵ月余り経っていた。(親子4人、三鷹の自宅着:S21.11.14)

    ②活発な文学活動
    
    ・大戦中、絶望の戦況下にあっても太宰の執筆、発表は作家の中でも一人目立つほど
     活発だったが、その積極活動は、戦後、青森の生家(金木町)にいる間も続いた。
     
    東京の、あるいはまだ疎開先に留まる知友や文学・出版関係者とは手紙のやりとりを
     頻繁に行なった。
     来訪者は多く、その対応や地元有力者との会合などをも通じて世情の情報を得ながら
     新たな時代の生き方に思いを巡らす日々だった。
     
    ③大宰の思い
    
    ・
この間に大宰が執筆した作品、手紙類の多くは、戦争-敗戦によってもたらされた
      日本人の心の傷や動揺、言動が題材で、「新時代にあるべき人の姿」を主題にした。
     
        例えば、戦後の第1作「パンドラの匣」をはじめ、「十五年間」「冬の花火」
          「苦悩の年鑑」「春の枯葉」「男女同権」「親友交歓」「トカトントン」、随筆「返事」
          などで、手紙は、井伏鱒二宛(S21.1.15付)、堤重久宛(S21.1.25付)がある。

          また、「文化」や「優」の字についての河盛好藏宛(S21.4.30付))も注目される。

     太宰はこれらの作品で、天皇主権の国家体制が、GHQの指令によって国民主権の
      民主国家、文化国家へと大転換が始まる流れの中で強い違和感と憤りを抱き、
      その思いを表明している。

     戦前戦中、戦争を支持、積極的に協力した知識人、文化人らが一転して平和主義、
      文化国家を提唱し、また、多くの著名人、有力者らがこぞって民主主義、自由平等、
      男女同権などを説く言動に対し、大宰は”新型便乗”として嫌悪感を顕わにし、
       「今こそ天皇陛下万歳と叫ぶべき」と云い、自分はリベルタン(無頼派)と宣言した。

    新たな権力,、権威に迎合、追従して保身、栄進を図る人の本性、風潮は戦前と何も
      変わっていない・・、変わるという大宰の期待は完全に裏切られた。
     
      大宰自身の価値観の基盤はキリストのいう「汝等おのれを愛するが如く、汝の隣人を
      愛せよ。」にあり、これに拘り続けて悩みを深めていた。

   (2)帰京直後・・

     帰京すると、執筆だけでなく座談会などに出席を求められ、多忙を極めた。
     その様子は、堤重久あて葉書(S21.11.24付)に「客と酒と客と酒」、「雲がくれして
     仕事」とあることからも察せられる。他者には知らせない仕事部屋を借りたのである。
     
     そうしたある日、偶然に林聖子と再会し、小説「メリイクリスマス」が生まれた。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――
     ・織田作之助・坂口安吾との「座談会」出席(S21(1946).11.25)

    
    帰京10日後、11月25日(月)に大宰は雑誌社主宰の二つの座談会に出席した。
        出席者は大宰の他、織田作之助、坂口安吾で、いわゆる無頼派座談会である。
      
         ・実業之日本社主催、司会は平野謙(「現代小説を語る」:文学季刊(S22/4))
         ・改造社主催、司会は同社(「歓楽極まりて哀情多し」:読物春秋(S24/1))

         この座談会の帰途、坂口、織田、太宰は銀座のバー「ルパン」へ行った。
           そこへ織田を撮影するために写真家の林忠彦が現れ 偶々、大宰を1枚撮った。
           
           カウンター前の高い椅子に腰かけ、椅子の上で胡坐をかくようなポーズの写真だが、
           これが、現在では印刷物やネット上に溢れる有名写真になっている。
            (本項末に掲載の雑誌「東京人」表紙の写真


    
  ・三島由紀夫との生涯一度の対面(S21(1946).12.14)

        後に、三島はこの時のことを「私の遍歴時代」(S38:「東京新聞」連載)などに書き、
          「太宰は大嫌い」の発信を続けるが、この二人の対面と会話は、府立五中(現・都立
          小石川高校)出身の文学青年仲間10余名が大宰を招いて開いた飲み会の席で、
          東大の学生だった三島は友人矢代静一に誘われて出席していた。
          
          林聖子によれば、飲み会の幹事役の一人である出英利は、後に聖子と同棲、交通
          事故死(S27)するが、この二人の出会いには太宰の死(S23)が関係している。

             これら帰京直後の状況は、次のサイト内別項目に詳記した。
                   「太宰治(人生と作品)-帰京(三鷹)
    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

   (3)林聖子と偶然の再会

    
・聖子は「風紋25年・いとぐるま-母と私-」に「昭和21年11月初めの日曜日」
     に三鷹の書店で太宰と再会 したと書いているが、大宰はまだ疎開中、帰京前なので
     12月の誤植か記憶違いだろう。
     「メリイクリスマス」には「12月はじめ」とあり、これなら12月1日である。
      
     ・諸状況から脱稿は12月10日頃なので、11月末か12月初旬の再会だろう。
      聖子は同書にこの時の状況を詳記しているが、概略は次のようである。
       
         「その日、雑誌「ロゴス」を買うために三鷹駅前の書店に入った。
          そこに太宰がいて、
お互いに気付き、私は「大宰の小父さん」と声をかけようとしたが、
          あわてて吞み込んだ。もう3年余りも会っていないし、私は昔のような子供ではない。
          〈注・この時、聖子は18歳)・・そう躊躇したところ、太宰の方から話しかけてきた。

          
          大宰をわが家に案内し、その夜、母(秋田富子)と娘は再会の喜びを
分かち合った。
          「中央公論」の「メリイクリスマス」は、雑誌名「ロゴス」が違うことと、私が原爆孤児に
          なっていること以外は再会の時の模様そのままである。」


 2.小説「メリイクリスマス」・・内容と評価
    
  (1)「中央公論」(新年号:S22/1)に掲載

    
大宰は聖子と再会して直ちに起稿し、12月10日頃に脱稿と察せられる。
     「中央公論」(新年号)に掲載された。本誌の実際の発売日ははっきりしないが、
     朝日新聞・東京には1月24日、同・大阪には同27日に発売広告が載っている。

     なお、聖子の上記書には「再会から半月ほどして、大宰は「中公公論-新年号」を
     自宅へ持参した」とあるが「半月」というのは記憶違いだろう。

  (2)物語の概略

    
私は11月に、1年3ヶ月の津軽疎開から帰京したが、東京は変わっていない。
     ”形而下の変化はあっても形而上の気質に於いて相変わらずである。
     変るべきと思う” と田舎のある人に書き送った。

     12月はじめのある日の夕刻、街の本屋でシヅエ子ちゃんに再会した。
     大きくなっているが、私が知る12-3歳の頃の少女の像に合致した。
     この子の母親は私と同年齢だが、私の思い出の女の人の中で、今、だしぬけに
     会っても恐怖困惑せずにすむ唯一のひとだった。お互いに恋愛とか男女関係とか
     いうことは意識になかった。
      
     この母娘は5年前に広島近くに疎開しており、以来音信が途絶えていた。
     これから直ぐに母と娘が住むアパートに行くことになり、一緒に歩きはじめた。
     道々、話をするうち、私はシヅエ子に恋をした。

     アパートの前に着いた時、シヅエ子から、母は広島の空襲で亡くなったと知らされた。
     部屋に入らず引き返し、鰻屋の屋台に入り、三人分の串とコップを注文、母を偲んだ。

     居合わせた客の紳士が屋台の主人を相手に酔って全くセンスのない冗談を言って
     騒いでいた。私は無視していたが、この紳士は、突然、通りを歩く米兵に向かって
     大声で「ハロー、メリイクリスマス」と叫んだ。私は、この諧謔には噴き出した。

     取り残された母のうなぎをシヅエ子と半分ずつ食べた。
     東京は相変わらず。以前と少しも変わらない。

   (3)これまでの作品評価

    ・
「太宰治大事典-メリイクリスマス」(H17・勉誠出版)に次のようにある。
      
     「同時代評では、古谷綱武の「読者によりかかった安易さや内容の青っぽさ」に
     代表される厳しい評が目立ったが、のちに、「語りの見事さ」(三好行雄)、「底に
     しみじみとした生の哀歓」(饗庭孝男)、「奇妙な明るい筆の弾み」(矢代静一)、
     などに目が向けられている。」とある。(小船井美那子記:原典は記載ないが下記と推測)
        
       ・古谷綱武-「文学通信」(新潮:S22/3)
        ・三好行雄-「太宰治必携」(学燈社:S55/9)
        ・饗庭孝男-「講談社文庫「ヴィヨンの妻-解説」(講談社:SS47/6)
        ・矢代静一-「含羞の人-私の太宰治」(河出書房新社:S61/5)

    ・発表時は、古谷のほか青野季吉も「真似とか、身振りだけの作品」(「群像」:S22/4)
     と辛辣だが、以降、上記や例えば石川巧「虚勢された啞(わら)い」(「太宰治研究 15」
     (H19/6))などの論調もある。
       
    ・戦後の混乱期、重い世相の中で、物語の展開に軽さ、浅さが感じられることが当初の
     不評に反映されたのかもしれないが、時を経て、本作品執筆までの背景やその後の
     太宰作品を読み合わせると再評価があってもよかろう。

 3.評価に関する私見

  (1)再評価について

   
・発表時は辛口評が有力だったが、その後は多様な別の見方も出ている。
   
    ・前出「太宰治大事典」で、小船井美那子は「多様な読みを含んでいる作品である。」
    としているように、酔客(紳士)の米兵に対する「メリイクリスマス」の叫びや
     「母の死」、「シヅエ子への恋」、が意味するものなど、読者の受け止め方は多様で、
    評価は、まだ定まっていないといえよう。

  (2)作品成立過程の注目点

    ① 帰京で「自力自走」の覚悟

    ・大宰は疎開中の青森から、戦争、敗戦に揺れる日本人の心や新時代の様相を主題
     に現実社会への違和感、憤りを表明した作品を発表したが、帰京後の作品主題は
     むしろ現実を受け入れ、そこで生きること、どのように生きるかに視点を移した。
     死を書いた作品もあるが、その死は生とセットになっており、主題は「生」と読める。

    ・新時代といっても人の気質は変わらず、他人を頼っていても自分が望むような世には
     ならない。ならば自分は自分で自分の望む生き方をするほかない・・、と思い定めた
     のではないだろうか。いわば他力を当てにしない「自力自走」の覚悟である。

      ちなみに、太宰は帰京で生家を出発する際に、それまで続いていた生家からの毎月
        生活費援助を返上した。金額的には超インフレが進行中で、それほど大きな意味は
        無いかもしれないが、太宰の心底にある「自力自走」の自信と決意の表れと察せられる。


     ② 「斜陽」執筆を構想中だった

     ・帰京に際し、大宰はチェーホフの「桜の園」に触発されて「斜陽」と題する小説の
     構想を練っていた。

     当時(S21)、新潮社(出版部)に勤務した野坂一夫は次のように書いている。
     (「著者と編集者-「斜陽」依頼記」(S45/6:東洋出版)より)
      
        大宰は、帰京直後(S21.11.20頃)に新潮社を訪れた。

        編集顧問の河盛好藏、出版部長の佐藤哲夫、野原が同席し、新潮社が
        大宰に
連載小説を依頼、大宰が正式に引き受けた際の発言である。

        「傑作を書く、大傑作を書きます。小説の大体の構想も出来ている。
         日本の「桜の園」を書くつもりです。没落地主の悲劇です。既にもう
         題名は決めてある。「斜陽」、「斜陽」です、どうです、いい題名でしょう。」


     ・GHQ主導による農地改革が進行し、津島美知子著「回想の太宰治ー三月二十日」
      (2008/3:講談社)に、「(疎開中に)地主であった太宰の生家の没落の様相は
      私どもの目前に在った。」、「大宰は「桜の園」だ。「桜の園」そのまゝではないか」と
      口ぐせのように言った。」とある。
     
      「斜陽」の構想の根本は、生家津島家の没落であることは確かで、構想を練る
      さ中に聖子との再会があり、急遽、10日間ほどで「メリークリスマス」を仕上げた。
      この「斜陽」の構想は本作品に関係ないだろうか。

       実際に完成した「斜陽」は本作発表直後(S22/2)に太田静子から借りた日記
         (いわゆる
「斜陽日記」)が素材だが、いずれにしても時代の急転回に翻弄
         される
戦前の上流階級の人々の生き方が主題であることに変わりはない。

  (3)物語として注目すべき諸点

     ①「シヅエ子」という名前

     
「シヅエ子」はちょっと変った名前だが、これは林聖子の実父、洋画家の「林 倭衛
       (はやし しずえ)」(S20/1:49歳で病没)から採ったに違いない。
     
      林倭衛の画家としてのイメージは権力への抵抗で、遺言には「軍人、役人、大馬鹿
      野郎」とあり、生涯その姿勢を貫いたとされ、当時は広く知られた名前だったこと
      から大宰は新時代に相応しい名前として作品の性格付に用いたと察せられる。

     ②シヅエ子の母は広島の空襲で死亡

    
 シヅエ子の母は「前時代の象徴」で、その「死」は「前時代の終焉」を意味しよう。
      
       ちなみに、実際には、大宰はこの日に娘(林聖子)と家に行き、母にも
         会っている。 この母(秋田富子)は、太宰の死(S23.6.13)の半年後の
         同日(S23.12.13)に病没した。

         なお、この母(秋田富子)と作者(太宰)との関係は、本編でも縷々説明
         されているが、1年前に発表の短編「嘘」(S21/2)に注目すべきである。
         (「嘘」に関しては、後出「第二部」に詳記したので参照ください。)


     
また、この「広島の空襲」は「原爆」と受けとれるが、太宰はなぜ「広島」と
       しながら「原爆」と書かなかったのか気になる。何らかの意識が働いたと察せられる。
      
       GHQの検閲がある時期だったのでそれへの対応だったかもしれないが、それなら
       「広島」でなくてもよかったはず、あえて「広島」としたところに、むしろ絶対権力
       には逆らえない時代背景をさりげなく示したと読める。

     ③シヅエ子に恋をした・・その恋は片思いだった

       シヅエ子は「新時代の象徴」で、「シヅエ子に恋した」は「新時代への希望、期待」
       を意味しよう。しかし、この恋は一人合点と気づかされてたちまち消えてしまう。
       新時代への希望、期待は片思いだった。

     ④酔客(紳士)の米兵への叫び「ハロー メリイクリスマス」

       酔客の紳士の米兵への「メリイクリスマス」の叫びは新時代の強者への迎合か、
       ある いはせめてもの抵抗か・・、おそらくは両者ないまぜの複雑な心情を大声で
       吐き出した束の間の憂さ晴らしだろう。
      
       「この諧謔に噴き出した」のは作者(大宰)の共感・共鳴の表明と解する。

     ⑤物語は「東京は相変わらず」に始まり「東京は相変わらず」で終わる。

       本作品は「疎開から帰ったが、東京は相変わらず」に始まり、「東京は相変わらず。
       以前と少しも変わらない。」で終わる。

       しかも冒頭の部分で手紙の形式にして「形而下の変化はあるが、形而上の気質に
       於いて相変わらずです。変るべきです。」とことさらに正確に、入念に強調している。

       つまり本作品の主題はここに集約されており、偶然の聖子との再会を題材に自身
       の心情を作品化したと考える。

       この時点で太宰が描いていた「斜陽」の内容は不明だが、没落する一族が相変わ
       らずの現実社会に生きること、生き方の難しさの物語だったことは確かだろう。

       「以前と少しも変わらない現実社会」を認知したという意味で本作品には「斜陽」
       構想が関係していると見てよかろう。

 4. 第Ⅰ部 の「むすび」

  (1) 「自力自走」作品への節目、巧みな工夫

    ・本作品発表(S22/1)後は、「ヴィヨンの妻」、「母」(S22/3)、さらに「父」「女神」
     「フォスフォレッセンス」「朝」、そして「斜陽」、「おさん」(S22/12)と続いた。
     (本項末尾掲載の「終戦直後の小説一覧」を参照下さい。)

    ・これらは、現実を受けとめて生きること、どのように生きるかが主題である。
     
     戦後、帰京前の作品に見られた戦争が関連する心の問題や新時代への期待と
     違和感、不信感の表明は本作品が節目となって薄れ、生きることの苦しさ、自力で
     自身の価値観を以て生きることの重さが前面に出てくる。
     
    ・本作品は、偶然に再会した若い娘と空襲で犠牲になった異性の友(その娘の母)を
     偲ぶという情感が切なく伝わる物語で、一部に浅さ、軽さが指摘されるが、前項の
     ように読むと創作での工夫が浮かび、感情に訴えるだけの単純な作品ではなくなる。

    ・大宰は、帰京に際し、新時代とはいいながら気質的に以前と少しも何も変わらない
     現実を生きる覚悟を固めた。
     これが、以降の大宰の創作の基本姿勢であり、本作品でそれを表明したと解する。

  (2) 好著、重要作品
     
     ・その覚悟を直接的に表現しなかったのは、この時期の太宰流で、遠慮、含羞からと
      察するが、あるいは構想中の「斜陽」の序章の位置づけを意図したかとも考える。

     ・本作品は、大宰の創作姿勢の大きな節目で…間もなく生き様の転換につながる…、
      前記のように、 行間に太宰の意図、才気が汲み取れる好著、重要作品と評価したい。

            ------------------------------------------------------

           第Ⅱ部  「メリイクリスマス」・・二人の女性と太宰治


     前記のように、「メリイクリスマス」に登場する二人の女性にはモデルがいる。
    シヅエ子は林聖子(後にバー「風紋」の主人)、その母(実母)は秋田富子である。

       二人と富子の夫で聖子の父である林倭衛の人生については、
        ・林聖子著「いとぐるま-母と私-」(「風紋25年」・「風紋五十年」所収)
        ・森まゆみ著「聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人

        ・南田偵一著「文壇バー風紋青春記:何歳からでも読める太宰治」

      に詳記されている。(本項末掲載の表紙写真参照
      
本項は、主にこれらの書によって太宰および太宰作品との関連を探った。

 1. 秋田 富子(あきた とみこ: M42(1909).3.3-S23(1948).12.13)
     
  (1) 太宰と富子の出会いと交友


    ①高円寺(杉並区)に住む-太宰が訪問

    
富子は(注1〉、林倭衛(注2〉と離婚(S12)すると、昭和15年(1940)には
      高円寺(杉並区)のアパートに住み、新宿の武蔵野館近くにあったカフェ
      「タイガー」で働き、この店で、店の客である室生犀星、萩原朔太郎、太宰治、
      亀井勝一郎などの作家を知った。
     
      これが太宰との出会い、初対面で、当初、富子は室生、萩原と親しかったが、
      すぐに三鷹に住む大宰が高円寺のアパートを訪ねるようになった。

     昭和17年1月には、太宰は堤重久を伴って富子のアパートを訪ねており、
      その時に描いた油彩画が残されている。
      堤、太宰、富子、三人の肖像(顔)が描かれ、太宰が画賛など添書を書いている。

  
      交友ぶりが伝わる貴重な資料で、「図説 太宰治」(2000/5:日本近代文学館偏)
         に載っている。また、安藤宏著「太宰治論」(2021:東大出版会)の「コラム35
         二人の女性画家」には、絵の裏には堤の覚え書きがあり、堤の顔は太宰が、
         大宰の顔は堤が、富子の顔は自分で描いたとある、などと解説がある。

     ・聖子は、「太宰は頻繁に来た」、「亀井が一緒のこともあった」、 「昭和18年の
      夏頃に、太宰にビールを注いだ」などと書いており、このころは相当の訪問頻度
      だったことが窺える。

     〈注1〉 富子の略歴(詳細は上記参考図書参照)

      富子は、明治42年(1909)3月3日、岡山県津山町(現・津山市)で生まれた。
         (太宰と同年の生まれで、3ヶ月余早い。)
      
        生家は、津山でも指折りの商家で裕福だった。
         津山高等女学校に進んだが、16歳の頃(T14(1925)に画家を志して上京した。

       昭和2年(1927)、富子(18歳)は師事した洋画家・林倭衛(32歳)と結婚し、
         長女聖子が生まれた(S3(1928))。

        昭和5年(1930)、富子は肺浸潤に罹り、結核は腎臓などに広がり、自ら富士見
         高原療養所(サナトリウム)に入院(S11)するなど、闘病生活は終生続いた。
       
        富子は翌年(S12)に退院したが、倭衛は後妻となる女性と既に同居しており、
         富子は別居、離婚した。聖子は倭衛と同居して暮らした。

         (富子と倭衛とは、離婚後も相互の家を円満に訪問しており、微妙な関係が続いた。
          富子は倭衛の両親と同居するなど良好な関係が続,き、後妻とも反目せず接して
          おり、一般の離婚のイメージとは
異なる様子が窺える。倭衛の葬儀にも参列した。
          聖子は倭衛と富子の家に適時同居、比較的自由に行き来したようだ。)

      (注2〉 林 倭衛(はやし しずえ)(M28(1895).6.1-S20(1945).1.26)
      
      
 洋画家としての林 倭衛について、サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター)
        のHPに次のようにある(概略)。
         
        「長野県上田市で生まれた。10歳の時、父親が事業に失敗し、倭衛は上京して
         印刷工として働く一方で絵画制作に関心を持って学んだ。
         二科展に初入選(T5(1916))、二科賞(T7)受賞などし、創始会員の
         有島生馬は「林倭衛氏は二科会にとっての宝の一つ」と評した。」
         
         「翌年(T8)、社会主義者たちと交流があった倭衛は、大杉栄をモデルにした
         肖像画「出獄の日のO氏」を二科展に出品、警視庁に撤去を命じられるなど
         物議を醸した。」

         「大正10(1921)年に渡仏。ポール・セザンヌのアトリエを借りて制作を行った。
         日本人としては初めてのことだと言われる。人物画や風景画を得意とし、
          印象派の影響を受けた明解な色使いと力強い筆致で知られている。」

         「帰国後は春陽会などで活躍したが、長年の酒癖がたたり、
         昭和20年(1945)に浦和市別所(現・さいたま市)で病没した。」

         「病床で書きとらせた遺言には「軍人、役人、大馬鹿野郎だ」とあった。」
         
         (森まゆみ著「聖子」によれば、この遺言を書きとったのは聖子で、
          倭衛は「この戦争は負ける」と言い、次いで、この言葉だった。)


    ②空襲-疎開-帰京(三鷹)-太宰に再会

      ・昭和20年4月、空襲で富子が住む高円寺のアパートは全焼した。
      富子は、数日後には聖子と共に津山(岡山県)の生家に疎開した。

      ・終戦(S20.8.15後、富子の行動は素早かった。
      10月(S20)に確たる当てはなかったが東京に向かい、熱海の知人宅に
      暫く滞在し、その知人が三鷹に借家を探してくれて翌11月に入居した。

         この家は三鷹市下連雀にあり、6畳に3畳という長屋の一室だった。
           なぜ三鷹に借りたのか、太宰の家が近いこのは偶然だったのか…、
           これに関する資料は見当たらず、不詳である。


       ・知己友人らの温かい配慮も受け、苦しいながらも生計を立てていた昭和21年
       の年末近くに、聖子は本屋で偶然に太宰と再会し、この時、家へ案内して
       富子も太宰との再会を果たした。3年半ぶりの再会だった。

       ・その後、この家を太宰は何回か訪れている。山崎富栄を伴ったこともあり、
       富子も富栄と会っている。昭和22年(1947)中、それも早い時期のことだろう。

      ・昭和23年(1948)6月13日、太宰治、
山崎富栄と心中死(享年38歳)。

    ③昭和23年(1948)12月13日、秋田富子永眠(享年39歳)。

      
富子の容態は、9月(S23)に急変し高熱で寝込む状態になった。
       
       三鷹にある病院に入院し、古田晁(筑摩書房)の配慮があって、当時はまだ
       入手が難しかったストレプトマイシンを投与するなど手を尽くしたが、太宰が
       入水した日から丁度6ヶ月後の12月13日、聖子に看取られて永眠した。

  (2) 太宰と富子の親交

   ①”色恋なし” の関係

     ・太宰は、「シヅエ子の母」について「メリイクリスマス」に次のように書いている。

          「母は、私と同じとしであった。そうして、そのひとは、私の思い出の女のひとの中で
           いまだしぬけに逢っても、私が恐怖困惑せずにすむ極めて稀な、いやいや、唯一、
         と言ってもいいくらいのひとであった。」

       そして、その理由を細かく説明しているが、要は、お互いに色恋の感情が
       なかったこと、富子の応対ぶりに太宰の心は満たされたということだろう。

       富子は太宰の訪問時の心情に合致した応対をした。
       富子の豊かな知性と教養が醸す雰囲気に太宰の心は安らいだのだろう。

       いわば母性への甘えと言い換えることもできよう。
       聖子も、「津軽」の一節と挿絵の「たけ」の顔からそうした見方をしている。

     ・聖子は、太宰の訪問について、次のように書いている。

           「あのころの太宰さんは、なぜ、あのように頻繁に、母を訪ねてきていたのであろうか。
         子どものころのことで私にはよくわからないが、もちろん色恋であったはずはない。
           あれほどひどい仕打ちをされながら、母は最後まで父を愛していたし、とても色恋など
           できる人ではなかった。ただ無類の淋しがり屋で、父が写生旅行に出掛けたときなど、
         
  ほとんど毎日のように手紙を書いていた人なので、あのころの母にとって太宰さんの
            訪れが、大きな心の支えになっていたことは確かだと思う。」

      ・野原一夫は、「回想 太宰治」に富子の家を訪ねた時(S23初め頃)の様子を
        描写し、太宰は沈黙の気まずさに耐えられない人だがここでは違った。沈黙に
        なんの気づまりも感じない”安堵感”があった、と二人の雰囲気を書いている。

   ②”微妙な” 記述も・・

       上記お互いが心の傷を癒し、癒される存在で、色恋なしだが、一方で、
       太宰の「メリイクリスマス」には 「それがすなわちお前たち二人の恋愛の形式
       だったのではないか、と問い詰められると、私は、間抜け顔して、そうかも
       しれぬと答えるより他はない。」 と書き、聖子の「風紋五十年」(2012)には
       「母は、太宰さんに好意を持っていました。それを太宰さんは、わかっていたと
       思う。少なくとも、太宰さんも母を嫌いではなくて。」 と書いている。

      ・井伏鱒二は、「別冊文藝春秋」(1990)の座談会で、ある人のお母さんが
        美人で、太宰はその人に惚れていた、というような発言をしている。
        名前は出ていないが前後の発言内容 から、この美人は富子と判る。

      ・美知子夫人は、「回想の太宰治-書斎」(S53)に、太宰は手紙類を保存する
        習慣はなかったが、何通かが引き出しに遺されており、その中でT子さんから
        の来信が最も多かった、と書いている。(来信の内容は未公開で不明)

       後述するが、太宰の「嘘」に登場する女性像や人物の会話は興味深い。
       ”色恋なしの関係”とはいえ、男女の性のややこしいところ、微妙ではある。

  (3)太宰作品に見える富子の人物像

    ①林聖子が挙げた四作品

     
林聖子と秋田富子が「メリイクリスマス」のモデルであることは衆目の一致する
      ところだが、聖子は「メリイクリスマスの思い出」(「太宰治全集8 月報」:1990)
      に、通常の意味におけるモデルではないが、「きりぎりす」「待つ」「水仙」「グッド・
      バイ」などの中にも母を思い出させる箇所があるとしている。

       ・「きりぎりす」(「新潮」(S15/11))・・脱稿は9月23日頃。
        画家と結婚した女性(妻)の夫宛の書簡形式の独白体小説である。
        夫が画家で二科会会員になったこと、離婚したことが富子の立場に一致するが、
        物語は全くのフィクション、太宰の創作である。

        太宰本人は「私の心の中の俗物根性をいましめた」作品としているだけだが
         (「玩具-あとがき」(S21/8))、聖子が感じ取ったように、富子と出会った
         ことが執筆に繋がった可能性は十分考えられる。

       ・「待つ」(創作集「女性」(S17/6))・・脱稿は太平洋戦争開戦直後(S17/1)。
        母と二人暮らしの若い女性の独白体小説で、太宰が富子・聖子の親子を意識
        したかは不詳だが、聖子は自分たちのイメージと感じ取ったのだろう。

       ・「水仙」(「改造」(S17/5))・・脱稿は昭和17年4月上旬。
        安藤宏著「太宰治論-コラム35」(2021:東大出版会)によれば、「富子は
        直接には「水仙」のモデルとして知られる」が、物語の展開は富子の実人生
        とは全く異なり、太宰の創作である。

        富子がモデルとされるのは、富子が主人公の静子と同年齢、一人娘がいる、
        画家志望だった、難聴になった、などが合致するからだろう。
        
        そして、聖子は、作中の重要部分である静子の手紙について、富子は自分が
        実際に大宰に送った手紙を太宰が無断で加工して使用していることとか、
        さらに静子の小説上の扱いを好まなかったと明かし、富子にとっては残酷な
        作品だったと回想している。
        
        富子の属性や手紙がヒントになったと察せられ、モデルとされるのだろう。

       ・「グッド・バイ」(全文「朝日評論」(S23/7))・・太宰の絶筆(未完)の小説。
        作中の主要人物、女性の”かつぎ屋”について、聖子は、太宰の目と
        ”かつぎ屋”姿の富子の目が合ったことからの発想と、次のように書いている。

         母は「昭和22年のある時期、ほんの短い期間であったが、(中略) かつぎ屋(闇商売)の
           真似事をしていた。(中略) 母は大きな荷物を背負ってある露地を入った。(中略)
           そのとき、偶然、トイレの窓から外を見ていた太宰さんと目が合った。」

           「太宰さんの絶筆となった「グッド・バイ」は、その時の母から発想を得たもののようだ。
           鴉声は、太宰さん流のフィクションであるが、「からだが、ほっそりして、手足が可憐に
           小さく、・・」「顔は愁ひを含んで、梨の花の如く幽かに青く、・・」とある主人公(作中の
           かつぎ屋)の姿は、そっくりそのまま母の姿でもある。」


        富子はその家が太宰が借りていた仕事場と知らず、大変なショックを受けて、
         「悲しくて、恥ずかしくて、背中の荷物が岩のように重くなった」と後々まで
         語っていたという。

       この4篇は、特に物語の展開において「富子がモデル」とは言えないだろうが、
       富子を最もよく識る聖子がそこに富子を感じ取っており、大宰が描いた作中の
       人物像には富子のイメージが滲んでいると見てよかろう。

     ②注目すべき作品「嘘」

       本作品は、入隊(徴兵)が嫌で逃げ帰った夫を自宅に匿った妻が嘘をつく物語で、
       この妻の人物像は「メリイクリスマス」の富子に通じることに注目すべきである。

        ・「嘘」(「新潮」(S21/2))・・昭和20年(1945)12月中旬の脱稿。

         物語は、戦後、私(作者)が生家に疎開中に旧友(名誉職:小学校同級生)
         から聞いた出来事という設定だが、この旧友は作者の分身であり、つまりは
         太宰の自問自答小説として読むと作品の主題が明確になり、結末の「その
         お嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」という問いと、その答えに
         「微笑した」意味の深さが解る。

         ちなみに、この妻は、”体つきはほっそりで、色は白く、町では美人という
         評判で、口数は少なく、よく働く。そして何よりも、二人だけの部屋で話をして
         いても、お互いが色気で窮屈な思いをすることがない。” というのである。

         この記述は、前記の太宰、聖子、野原の記述にほぼ合致し、富子に重なるが、
         加えて、もう一点、見逃せない事実がある。
         
         それは、10月3日付の富子に宛てた太宰のハガキである。(林聖子、所蔵)
         終戦直後(S20)、共に生家に疎開中で、金木町から津山市へ送られた。

         「拝復 おたよりをありがとうございました。」に始まる文面が葉書表面の下部
         に書かれている。(宛先の下の部分で、裏面は絵か写真だろう。)
         終戦直後に富子が太宰宛に書いた便りへの返信であり、この時、太宰は富子
         と聖子の存在をあらためて強く意識したはずである。
         そして「嘘」を起稿した・・。
   大宰の葉書:翻刻〈葉書表面に縦書き・/は改行)
   (葉書の実物写真は、「東京人」「聖子」に掲載)

(上半部に宛名と差出人、日付:「十月三日」)
   宛名:岡山県津山市・・
「秋田とみ様」
   差出人:青森県金木町・・「太宰治」)
(下半部に文面
 拝復 おたよりをありがたふ/ございました、せい子チャンも/
 お母様もご無事の由、安心/いたしました、私のはうは、/
 三鷹でやられ、甲府へ疎開/したら、こんどは甲府で焼/
 かれ、さんざんのめに逢ひ、/いまは生れ故郷の家に居候/
 してゐます、来年の春/あたりに東京へ様子を見に/
 出ていくつもりです、
 そちらも観念して、ボンヤリお/ ?? なさい、東京は、/
 まだひどいやうです、
 では、また 不乙、
          この事実は、「嘘」に込めた大宰の思いを読み解こうとするとき、「メリイ
          クリスマス」の記述と合わせて見逃せないポイントの一つといえよう。
          
          はたして、夫を匿った妻は「嘘をついた」のか?
          名誉職の正直な最後の言葉以外の言葉は?

 2. 林 聖子(はやしせいこ:S3(1928).3.16-R4(2022).2.23)

  (1) 太宰と初対面
     
     ①林聖子は林倭衛(洋画家)と富子の長女

     
・大正15年(1926)、約5年間の仏欧滞在から帰国した洋画家・林 倭衛(32歳)は、
       画家仲間の木下孝則の弟子、秋田富子(18歳)と結婚し、荻窪(杉並区)に
       住んだ。当時の荻窪郵便局(その後電話局、現在、1階はマイバスケット)の
       裏手で、近くに西郊ロッジング(現存)があった。
      
       ・昭和3年(1928)3月16日、長女・聖子が渋谷区の笹塚病院で生まれた。

       
・幼少期は、母の肺結核発病、父の活発な制作行動、複数の女性との関係(複数の
       子を儲けた)などの影響で、聖子の居所は転々と変わった。
        
      ・父母の別居(S12(1937))、離婚で聖子は父の許で暮らし、小学校は千葉県内、
       東京都内で前後8回にわたり転校、最後は杉並区だった。

     ②小学6年生の時、母富子と暮らした。
      
      
・6年生の時に、高円寺(杉並区)のアパートに住む母と暮らし、杉並区の小学校
       に転校して卒業した。昭和15年(1940)3月と察せられ、聖子12歳である。

         (この時期に関する聖子の「いとぐるま-母と私-」の記述には記憶違いがあろう。
          森まゆみ著「聖子」の記述では卒業は昭和15年3月だが、曖昧部分もある。)


       ・昭和16年、父は浦和市別所(*)に転居、聖子も同居し高等女学校に進んだ。

      
 (*)浦和市(現・さいたま市浦和区)・・このころ、浦和には多くの芸術家が
          
集まり、居住した別所沼付近は特に「アトリエ村」と呼ばれていた。

     ③高女時代、土曜・日曜に母の高円寺のアパートへ通った。
     
      
昭和16年は、浦和で父と同居して高等女学校に進んだが、土・日ごとに
       母が住む高円寺のアパートに通った。
       大宰はこのアパートを訪れており、聖子(13歳)はそこで初めて太宰に会った。

  (2) 聖子の大宰との交流
      
     ①初対面…

       
       聖子が母のアパートで初めて太宰と会ったのは昭和16年(1941)、聖子13歳、
        大宰32歳。正に「太宰さんの小父さん」で、子供と大人だった。

       聖子がこのアパートに来ると、度々太宰に会った。亀井勝一郎が一緒のことも
        あった。聖子は大人の話を聞いているだけだったが、大宰は聖子を可愛がり、
        おでん屋に連れて行ったり、本屋で子供向けの本を買い与えたりした。

       昭和18年の夏過ぎころに、聖子は大宰にビールを注いだエピソードがある。
        聖子と母が終戦前に大宰に会ったのは、このころが最後だったのだろう。

     ②戦後…
       
       ・
再会(S21/11か12)後に太宰は三鷹の母娘の家を度々訪問した。
        「メリイクリスマス」が載った「中央公論」(S22/1)誌を早々に届けている。

       翌年(S22)春頃、聖子(19歳)は、太宰の世話で新潮社に入社、野原一夫、
        野平健一がいて親しくした。有名作家らと接する機会も多かった。

        聖子は勤め帰りに、三鷹の屋台店で飲む太宰に呼び止められて一緒に遅く
        まで飲み、太宰に家まで送られたことも再々だった。
        富子は太宰に、「あまり飲ませないで」と言っていた。

       聖子が新潮社に勤め始めたころ、大宰は山崎富栄を知り(S22/3)、親交は
        急速に進み愛人関係に発展した。
        
        聖子によれば、秘書の役目もする富栄は、日が経つにつれて大宰の旧い友人
        たちを遠ざけるようになり、聖子と母は大宰と疎遠になっていった。

         富栄の日記(S23.4.8)に、「あさ、聖子ちゃんみえる。新潮退社について
           ご相談にみえる。つづいて八木岡さんみえる。うるさいことがらばかり。
           (中略) 午後、野平さんみえる。 (中略) 聖子ちゃんのことについて
           三人で心配する。」とある。
           (聖子は、この4月か5月頃に実際に新潮社を辞めている。)

           「聖子ちゃん」とあるように、これまで聖子と富栄は何回か会っているが、
           この時は歓迎されていない雰囲気が感じられる。
           

       昭和23年(1948)6月13日深夜、大宰は富栄と玉川上水で入水心中した。
        聖子はこの4月に新潮社を退職していたが、14日早朝、野平の訪問を受け、
        大宰と富栄の失踪を知り、野平の勘で玉川上水を探し、入水場所を発見した。

        二人の遺体は19日に発見され、母富子は太宰の検視に立ち会った。

        聖子は、大宰の良き理解者古田晁の配慮で筑摩書房に入社(S23/8)した。
        
      ③太宰と母(富子)が他界の後

       
大宰入水の日から6ヶ月後の12月13日、母は、結核のため三鷹の病院で
        聖子に看取られて永眠(享年39歳)した。

         
この後、聖子は筑摩書房を退社(S25/4)、出英利と同棲(*)、生活のため
         銀座のバーに勤務した。

            
(*)出英利は、著名な哲学者で東大教授、都知事選にも出馬(S26・落選)の
             出隆の息子(兄は東大・学徒出陣で戦死)で、太宰と三島が対面した前記
             飲み会の幹事の一人だった。それ以来、太宰の弟子のようにしていた。

             聖子と出との出会いは太宰の心中時の玉川上水捜索だった。

             出の死は、中央線西荻窪の踏切での轢死(S27.1.8未明)で、一部で自殺とも
             いわれるが、聖子や出と近しい関係者の言から事故死としみてよかろう。

              (聖子と英利との間には太宰が居るが、両者にはさらに驚きの縁があった。
               聖子が阿佐ヶ谷にある出家を訪ね、隆と親しくしたことから判ったことで、
                 ・出隆は聖子の母と同じ津山の出身で、両家の祖父母らは懇意だった。
                 ・「出隆兄 倭衛」と墨書した「倭衛の個展(1920)の目録」が、後に、隆
                  から聖子に届けられた。二人には以前から面識があったことが窺える。
               いずれも、富子と倭衛が出会う以前のこと、まさに奇縁と云えよう。)

         
出の死後は演劇関係に進み、バー勤めを辞めて東中野で勅使川原宏
         (*)と暮らしたが(S27~S33)、別れをきっかけにバー勤めに戻った。

            
(*)勅使川原宏は生け花草月流家元勅使川原蒼風の長男で、既婚者だった。
                この当時は画が専門だったが、このころから映画界に進出、生け花など
               多才な芸術家として名を成した。


  (3) バー「風紋」を開業(店主として接客)
      
    
聖子は、太宰と母の死後、バー勤めや演劇界での経験、出、勅使川原との関係
      などを通して社会人として成長した。
      
     昭和36年(1961)12月15日、聖子33歳の時に新宿三光町にバー「風紋」を
      開店した。広さ4坪の小さなバーだが、聖子の人生にとって大きな第一歩となった。

        ・店名「風紋」は、小学校に通った千葉県鵜原の海岸の砂浜の紋様から命名した。
          
          ・営業に関しては、多くの知己、友人らからの物心両面で強力な支援が得られた。
           古田晁・野原一夫・勅使川原宏・檀一雄・浅見淵・木山捷平・山岸外史・
           浦山桐郎・石堂淑朗・野坂昭如・・等々、文学、出版関係者、縁者ら多彩である。

          ・聖子は、退職や別れを繰り返したが、前の関係者はそのこととは関係なく「風紋」
           を支援 している。円満な退職、別れだったことが分かる。
          
           支援者や常連客には大宰に所縁のある名も多いが、聖子が独自に築いた人脈の
           幅の広さ、多さが目立ち、聖子の人柄、魅力、人間力の高さが窺える。

          ・作家、編集者など文壇関係者が客として多く集り、「文壇バー」として世に知られ、
           繁盛して、初代「風紋」(S36-S41)、近くに第2代「風紋」(13坪:S41-S54)、
           さらに第3代「風紋」(17坪:S44-H30)と広げた。(第2・第3は10年間併存)

          ・この間に、聖子は結婚(S38)、長男出生(S43)、離婚(S48)があった。

      ・平成30年(2018)6月24日、聖子90歳、惜しまれながら「風紋」閉店。

   (4) 令和4年(2022)2月23日、聖子永眠(享年93歳)。

 3. 第Ⅱ部 の「むすび」 

  (1) 二人の墓所は大宰と同じ禅林寺(三鷹) 

    ①秋田富子の墓


      富子の墓は、聖子が昭和42年(1967)に、禅林寺(三鷹)に建立した。

      大宰の墓に近い、一寸奥まった所(01-06)にある。
     
生前の太宰との親交を思ってのことに違いない。

     ②林 聖子の墓

      林聖子も秋田富子の墓に眠っている。
      
      ・南田偵一著「文壇バー風紋青春記」(2023)によれば、ご遺族はいろいろ迷って
         おられたが、「最終的に、聖子さんは禅林寺の富子さんと一緒のお墓に眠る
         ことになるという。」とある。

        ・今年の桜桃忌(2025/6)に、南田氏のSNSに「聖子さんのお墓参りで禅林寺に
         行く。」旨の記述があった。ところが「秋田富子墓」には聖子に関する表示は
         何もないので関係先から情報を得たところ、「聖子さんも一緒」とのことだった。


  (2)親子、三人三様・・異色の波乱人生

    ①秋田富子・・闘病人生と大宰

    40年に満たない短い生涯で、20歳以降の後半生は病(結核)との戦いだった。
     入退院、手術、さらには離婚もあり、しかも 戦中、戦後の混乱期、現に高円寺の
     アパートは空襲で焼け、已むなく、津山(岡山県)の生家へ聖子を連れて疎開、終戦
     直後に帰京、生活のため酒場勤めや”かつぎ屋”をするという波乱の人生だった。

    聖子は「幸せ薄く、短い生涯を閉じた母」と書き、傍目にもやはり、辛い、苦しい
     人生と映るが、聖子は続けて「母の周りには、いつも素敵な男の人たちがいて、
     恋とはいえないものの、たいへん親しみのある不思議な人間関係を作り出して
     いました。」とも書いている。

    容姿に恵まれ、画家を志すほどの豊かな感性と、名のある画家、作家らと親交するに
     十分な知性と教養を供えた女性だからこその人生だったろう。
     
     富子が自身の人生をどのように思っていたか、聖子によれば、本人は自分のことは
     あまり語らず、書き残したのは75首の短歌(注)くらいとのことで、想像するしか
     ないが、あるいは、毎日を精一杯、無我夢中で過ごし、あれこれと思い悩む暇は
     無かったかもしれない。

    戦後は三鷹に住み、特に太宰との親交が濃く、逸早く太宰の異変を察知したようが
     如何とも為しがたく、最悪の結果に立ち会うことになってしまった。
     それから丁度半年、どんな思いで過ごしたか不詳だが、太宰の後を追うように短い
     波乱の生涯を閉じた。

        (注)聖子によれば、「死の間際に、思い出し思い出しながら書き認めた」という。
           富士見の療養所のことが多く詠まれており、全体的に心静かな、穏やかな
            印象である。安らぎの心境にあったのかもしれない。
            全75首は、南田偵一著「文壇バー風紋青春記」(2023)に収録されている。


    ②林 聖子・・天性は「風紋」で結実

    ・
両親から授かった天性は磨かれて「風紋」で開花結実、94年の天寿を全うした。

      しかし平坦な道ではなかった。
      前記したように、幼少期の特異な環境や、17歳で父を、20歳で母を亡くして
      戦後社会で独り立ちせざるを得なくなった状況は過酷だったに違いない。

     古田晁の配慮で筑摩書房に勤務するなど大宰関係者をはじめ、父母の生前の
      人間関係にも援けられながら社会人として、人間として多種多彩な経験を重ね、
      昭和36年(1961)、33歳にして新宿にバー「風紋」を開業した。

      後に、「文壇バー 風紋」として世に知られるようになったが、その過程では幾多の
      難関を乗り越えている。

     支援者や常連客には大宰に所縁のある名のほかに、聖子が独自に築いた人脈の
      幅の広さ、多さが目立ち、聖子の人柄、魅力、人間力の高さが窺える。
      正に異色波乱の人生だった。

    ③林 倭衛・・奔放、太く短く

     長年の深酒がたたり肝臓を傷め、終戦前に、49歳の生涯を閉じた(S20/1没)。
      大正期から戦前・戦中は二科会、春陽会の会員として活躍し、権力体制とは距離
      を置く活動で名を成したが、没後80年の現在、林 倭衛の名を知る人は多くない。

    その生涯は、よく言えば自由闊達、悪く言えば我儘身勝手、ということになろうか。
      「おれの持っているものの凡てをこの地上に叩きつけて死にたい」が22歳の時の
      言葉という。(HP「サントミューゼ:上田市交流文化芸術センター」より)
      明治男の気概を感じさせる,。異色・波乱の太く短い人生だった。

      ―――――――――――――――――――――――――――――――
  (主な参考資料)

  ・
「風紋25年:いとぐるま-母と私-(林聖子)」(1986:「「風紋の二十五年」の本を作る会)
  ・「風紋五十年」(2012:パブリック・ブレイン)…「いとぐるま-母と私-」所収あり
  ・「東京人-特集 今こそ読みたい 太宰治」(2018/7:都市出版)…下に表紙写真
  ・森まゆみ著「聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(2021:亜起書房)…下に表紙写真
  ・南田偵一著「文壇バー風紋青春記:
何歳からでも読める太宰治」」(2023:未知谷))…下に表紙写真
  ・「太宰治全集 8-解題(山内祥史)・月報(林聖子)」(1990/8:筑摩書房」)
  ・山内祥史著「太宰治の年譜」(2012:大修館書店)
  ・HP「サントミューゼ:上田市交流文化芸術センター」(2025/09)



対談:林聖子×堀江敏幸

「太宰さんは、
ひょうきんな人でした
 

装幀・レイアウト
矢作多聞

林聖子のインタビューが主体)
 
 
カバー写真:上から
林聖子:石本卓史撮影
大宰治:日本近代文学館蔵
秋田富子:林聖子遺族所蔵
--------------------------------------------------------

  (ご参考) 大宰の終戦直後(S20/8~S22)の小説一覧.

 発表 小説表題 参考 メモ 発表  小説表題  参考 メモ
S20/ 9  惜別  戦中、S20.2.20頃脱稿 S21/11  ねび  S21/8~9頃脱稿 
S20/10 *パンドラの匣  新聞連載(S20/10~S21/1) S21/11  薄明  創作集「薄明」に初出
S20/10  お伽草子  戦中、S19/6末脱稿 S21/12  男女同権  S21/10末頃までに脱稿題
S21/ 1  庭 *「津軽通信」中の一編 S21/12  親友交歓  S21.10.2までに脱稿
S21/ 1  親という二字 *「津軽通信」中の一編 S22/ 1  トカトントン  S21/11上旬頃脱稿
S21/ 2   *「津軽通信」中の一編 S22/ 1  メリイクリスマス  帰京後の第1作
S21/ 2  貨幣   S22/ 3  ヴィヨンの妻  S22.1.15過ぎ頃脱稿 
S21/ 3  やんぬる哉 *「津軽通信」中の一編 S22/ 3  母  
S21/ 4  十五年間   S22/ 4  父  
S21/ 5  未帰還の友に   S22/ 5  女神    
S21/ 6  冬の花火  戯曲 S22/ 7  フォスフォレッセンス    
S21/ 6  苦悩の年鑑   S22/ 7  朝  
S21/ 7  チャンス   S22/ 7  斜陽  「新潮」連載(S22/7~10)
S21/ 9  春の枯葉  戯曲 S22/10  おさん  
S21/10  雀 *「津軽通信」中の一編 S23/ 1  「犯人」、「饗応夫人」、「酒の追憶」を発表 
  *「パンドラの匣」の原型は、印刷中に空襲で焼失した「雲雀の聲」(S19)で、その校正刷を改稿して発表した。
  *「津軽通信」は、「冬の花火」(S22/7:中央公論社)に既発表の上記5編も収録しこの5編の総題として付した名称。 
(山内祥史著「太宰治の年譜」(2012/12:大修館書店)による)
-----------------------------------------------------------
               (本項「太宰治「メリイクリスマス」とモデル(秋田富子・林聖子)」:R7/10UP)


HOME (総目次)